実はミステリー!暴君ネロの真の姿とは

後世に暴君と言う汚名を残したが、実態はその裏返しだったかも・・・

「なぜ暴君ネロって言われているの?」

そんな疑問を持つ方向けの記事になります(2020/09/04 更新)

/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_

  1. 実はミステリー!暴君ネロの真の姿とは?
  2. ローマを襲った大火災
  3. 暴君ネロの実態は実は”名君”

/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_

実はミステリー!暴君ネロの真の姿とは?

ある夕食会を開いた暴君ネロは、明かりの代わりにキリスト教徒を磔にして燃やした。
暴君ネロの残虐性はあまりにも有名。
ローマ市内をうろついて気軽に人殺しをしていたとか。
またネロは実の母親を疎ましく思い、母親の寝室に兵隊を送り込み、暴行を加えた上で、刺殺した。
ネロの最初の妻も追放され、おまけに首を切り落とされ、二番目の妻に贈ったとか。
そのネロの二番目の妻も悲惨な運命で、妊娠中に蹴り殺されている。
理由は「遊びすぎよ」と窘められたからだと言われている。
またオキニの十代の少年を去勢させ、妻にしたとか、毛皮に身を包み、狼男となって、なんの罪もない民衆の男女を柱に縛りつけ、 性器を噛みちぎったとか、こういった噂は事欠かないのだ。
まぁ、これだけ逸話があれば立派な暴君でしょうね。それだけはないのよね?

ローマを襲った大火災

大火災が発生し、燃えさかるローマを見ながら、歌を歌ったとされる暴君ネロ
燃えるローマを見ながら歌う暴君ネロ

紀元後64年7月19日の夜間、ローマ都心に近い大競技場チルコ・マッシモ周辺の商店通りから起こった火の手が、風に煽られ瞬く間に大火事となり、ローマ市14区のうち3分の2にあたる10区を焼いた。
うち3区は灰燼に帰し、7区は倒壊した家の残骸をわずかに留める程度だったという。首都ローマはこの時、人口100万人以上となり、道は狭く、木造建築の建物が多かったことも災いし、この時、鎮火まで7日間もかかった。
ネロはこの時、燃えるローマをみながら、弦楽器を奏でて歌と音楽の調べに身を任せていたとか言われている。
暴君ネロはこの火災の原因はキリスト教徒だと決めつけ、大規模なキリスト教徒大虐殺へとつながっていく。
それだけではない。
この火事の焼け跡に黄金宮ドムス・アウレアを建造してしまう。
こういった蛮行に国費が浪費され、元老院はたまりかねて評議会で「国家の敵」とされ、暴君ネロは自殺へと追い込まれていく。
元老院は暴君ネロの死後、彼が存在 していたことすら認めない法律までできたとか。
しかし、実態はそれほどではなかったかもしれない・・・

暴君ネロの実態は実は”名君”

暴君ネロの伝記を最初に書いた人物はスエトニウスとタキトゥスの2人で、彼らは 暴君ネロと敵対していた元老院と深くつながっていた。
そのため、政治的な理由から名誉を おとしめていたことは明らかだろうね。
だってキリスト教を公認したコンステンティヌス帝 も敵対する元老院を殺害したり、実の子や二番目の妻を殺害したりしている。
なので暴君ネロ だけが素行が悪かったというわけではなく、ある程度政治宣伝による粛清は行われていたということだろうね。
ローマの大火災が自分の仕業だと告白したにもかかわらず、キリスト教徒迫害の理由としたって話もあるけど、後世の創作の可能性大だね。
なぜなら、この火災の時、暴君ネロはローマではなく、出身地であるアンティウムにいたとされている。
大火災が起き、急いでローマに引き返したのだ。
一説ではネロがローマの大火災 を眺めながら、弦楽器を奏でていたとか言われているがこれは火災から150年以上もあとに 書かれた物語だったりするわけだ。

「ローマ市の地下から公衆運動場が出土」

2007年、地下鉄建設の事前調査でローマ市街の地下を調べていたところ、ネロがローマ大火災の数年前に建設したとされる巨大な公共運動場が発見された。
ネロはギリシア文化をローマに取り入れ、体育の考え方を帝国全土に広めたようだ。
ネロは古代ギリシアのオリンピア祭にならって、詩と音楽、体育を競うネロ祭を導入し、民衆には大変な 好評だったことがわかっている。
それまでは大浴場とかは貴族のものだったが、ネロの時世では元老院も兵士も関係なく利用できたとか。

実は野心家で、イケスカねぇ母親

(暴君ネロ)

またネロに殺された母親だが実はかなりの野心家で、実の兄を暗殺しようとして告発されてたり、三番目の夫を毒キノコで殺そうとしていたことも判明している。
つまり母親を殺害したのはそれなりの理由があり、無差別に殺害したわけではなかったかもね。
ネロは16歳で皇帝となった時、善政をしく。

死刑執行の命令書にサインを求められた時も、ネロは「文字など書けなければよかった」と嘆いたという。

ローマ大火災の焼け跡に建造されたドムス・アウレア黄金宮殿は、森や池があり、遊歩道も作られ、大理石を大量に使った宮殿でした。
ネロはこれを民衆に解放し、楽しませようとしたんだけど、逆にヒンシュクを買ってしまったようだ。
ただ文句言ってたのが民衆ではなく、富裕層だったかもしれない。
歴代ローマ皇帝はこのような建造物を建てる莫大な資金を他国に侵略することで得ていたが、暴君ネロは戦争を嫌っていたため、戦争をする代わりに富裕層から税で搾り取っていたようだ。
元老院がそれらを拒否すると、ネロは罪をでっち上げ、その富裕層を裁判にかけ、重い罰金を払わせたこともあったという。
ホントいうと暴君ネロは当時民衆には人気があったかもしれないね。
ネロはこのように邪魔な元老院をそっちのけにし、直接民衆を支配しようとした。
しかし、夢想家ネロによって国家財政が圧迫してしまい、恨みを持つ元老院に付け入る隙を与えてしまったことが災いし、その元老院たちによって暴君ネロ像が生み出されてしまったということかもしれないね。

ホーム » 歴史 » 超古代史 » 実はミステリー!暴君ネロの真の姿とは

おすすめ記事