本能寺の変の裏側!秀吉の密談はあったのか?

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  1. 本能寺の変で秀吉が暗躍?
  2. 毛利輝元は本能寺の変勃発前から既に敗北を悟っていた?
  3. 謎の人物が本能寺炎上の京で暗躍
  4. 本能寺の変が勃発する数年前から秀吉は準備していた!?
  5. 秀吉の密談は本能寺の変の裏側であった!?
  6. 神業!中国大返しの裏側

本能寺の変で秀吉が暗躍?

「な、なんと!羽柴軍がもう山崎に現れただと?信じられぬ。彼奴は備中高松にいるはずではないか!」
本能寺の変にて、信長を亡き者とした明智光秀は額から冷たい汗が吹き出し、ガタガタと膝頭が震えていたに違いない。
なぜなら、光秀は毛利家と対峙していた秀吉は中国に釘付けされて動けないと読んでいたからだ。
それが変を起こしてたったの八日余りで全軍引き返してきたと知れば、さぞ肝を冷やしただろうと想像に難しくない。
自身の顔に死相を浮かべると同時に、ある疑問も浮かんだに違いない……
なぜ?これほどの短期間に引き上げられたのか?
羽柴秀吉は変となんらかの関わりがあったのか?
それとも毛利側と密談があったのか?
私としては毛利方となんらの密談があったとしか思えない。
その理由は、以下の通りだ。
本能寺の変が起こった天正十年六月二日の前日、備中高松では、清水宗治、その兄月清入道の申し出により切腹が行われ、検使として堀尾茂吉が使わされた。
援軍に来た毛利輝元、吉川元春、小早川隆景ら七万騎は、忌々しい思いを表情に滲ませて秀吉軍と対峙していたが、何も出来ないままでした。
決戦すれば両家とも大きな損害を被ることになるので和睦する旨を伝える目的で毛利側の安国寺恵瓊を呼び出した。
黒田官兵衛は安国寺恵瓊と共に三日、吉川、小早川と対面して和睦について談合したと【黒田家譜】は記載している。

==ちょこっとコラム==
明智光秀は本能寺の変から11日後に竹藪の中落武者狩りにかかって死んだとされているが、生存説が!!
果たして史実なのか? よくあるデマか?
明智光秀は本当に死んだのか?光秀生存伝説ミステリー

毛利輝元は本能寺の変勃発前から既に敗北を悟っていた?

【惟任謀反記】

毛利家より懇望の条々あり、分国の中、備中、備後、伯耆、出雲、石見、
以上五カ国渡し進め、誓紙を添え、人質を出し、御旗を
継ぐべくの由、再三、申し来る。

【惟任謀反記】にも同様の内容が記載されている。人質、誓紙、五カ国の譲り渡し、それに加え織田家の旗下に続くとまで言ってる。
完全に毛利家の敗戦である。

兵数の多い毛利家が不可解であるが、これを引き出したのが”信長・信忠の援軍”である。
信長がどのような人物で何をやってきたかはもちろん毛利家は知っていただろう。
秀吉は信長に援軍を要請した。
これは毛利家を戦わずして組み入れるためのいわば時限爆弾のようなもの。
秀吉は……

信長・信忠本隊が来ればもうどうにもならない。あとは大量殺戮が行われる。
それよりここは和睦してはどうか。
織田家の傘下となればその災いがふりかかることはない。
時は今しかない。

そんなことを言ったのではないだろうか。
”人たらしの名人” 秀吉である。
これくらいの交渉は朝飯前だったろう。
軽薄な笑みを浮かべる秀吉が想像できる。

今でこそ、広告に”タイムセール”とか、”期間限定”という文字にハワイアンダンスさせて、消費者の判断を購入の方へ誘導するのは常套手段だが、秀吉は既にこの戦国時代で仕掛けていたっぽいね。

実は、毛利家は前には織田家、背後には九州の島津家を敵に回していたらしい。
その島津家は毛利討伐の準備を進めていたことがわかっている。
滅亡は必至だったというところか。
毛利側の安国寺恵瓊は、羽柴側の条件をすべて受け入れる方向で受諾した。
これによると毛利側は織田家との総力戦は不利と見ていた。
そしてこのままでは毛利家が滅亡してしまうことを危惧していたのだ。
そのため再三降伏の使者を遣わしていた。
こうして見てくると、なぜ秀吉は本能寺の変を知ってたった1日で和睦できたのか?と疑問に思ったりしていたが、既に信長が到着する前から交渉ははじまっていたと考える方が自然な気がする。
しかし信長の許可なく和睦するのは命令違反ということになるのではないか。
実はそうではないらしい。

==ちょこっとコラム==
本能寺の変といえば、業火に包まれる本堂で雑兵相手に槍を振るう死闘だよね?
……でも本当にそんなことがあったのか? そこで大胆な仮説を立ててみた!!
本能寺の変、信長信忠替え玉疑惑?ミステリー

秀吉の中国征伐の作戦とは?

【惟任謀記】

然らば、当日、西国の限り、一片に属すべきの旨、上意を得奉るのところ、
御下知をなし下され、率爾の合戦然るべかざるの旨、御諚ありて・・・

秀吉は毛利の西国を一気に片付けることを信長から許可を得ている。
信長は一応許したが合戦を急ぐなと秀吉のことを心配している。
まずは明智光秀を軍師として送るからよく計略について相談しろと言っているのである。
しかし秀吉は戦により一気に片付けるつもりは毛頭なかったのだ。
それだとお互い消耗戦となり漁父の利を得る第三者の台頭を許しかねない。
それに戦ではどれだけ時間がかかるかしれない。
毛利側からの使者で戦う気があまりないことを悟っている秀吉は「見せ」の信長本隊による援軍を乞うだけであとははじめから交渉でオトすつもりだったのだ。
毛利側から五カ国奪取に加え、人質を取るとなると織田家の勝ち戦である。
それを信長は命令違反とはとらないだろう。
変前から交渉が始まっていたのは史実であり、間違いない。
そしてそれこそが秀吉の毛利攻略だった。

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謎の人物が本能寺炎上の京で暗躍

それと忘れてはならないのが徳川家康の堺見物の案内人として京周辺にいる杉原家次である。
ここで、杉原家次という怪しい人物の正体について明かしておこう。
彼は秀吉の正室、寧々の生母である朝日局の兄にあたる人物で、なんと秀吉の身内にあたる。
しかも本能寺の変の騒動後、明智光秀の旧領を論功行賞でもらっている。
賤ヶ岳の戦い後は3万石以上の大々名に出世した。
いくら身内っていってもなんの功績もない者にタダでくれてやることは周囲が許さないだろう。そのため、この本能寺の変騒動に大きな役割を果たしたと考えても良いのではないか。
光秀の中国出陣は決定した。
あとは光秀自身が決意するか否かの問題で裏切れば、京、堺周辺にいた杉原家次から信頼できる知らせがくることになっていたとしたら……
つまり光秀が裏ぎらずにそのまま援軍到着すれば毛利は滅亡、そうではなく光秀が裏切れば毛利とそのまま交渉して和睦して京へ急襲。
これは秀吉の”王手飛車取り”作戦だったのではないか。
どちらに転んでも秀吉が損をすることはなかった。
ちなみに織田家と毛利家ははじめから敵対していたのではない。
天正元年(1573年)、信長は足利義昭を京から追放した。
義昭は一旦堺にいたが信長の要請で帰京交渉を行った。
この時、毛利側使者として安国寺恵瓊が、信長側の使者として羽柴秀吉があたっている。
交渉そのものは決裂に終わったが羽柴秀吉と毛利家、安国寺恵瓊の関係はこの時からあったということだ。
余談だが、この時安国寺恵瓊は足利義昭に毛利領にはくるなと要請している。
毛利家はただコストがかかる厄介者としか見てなかったようだ。
足利義昭が明智光秀をそそのかしたとする黒幕説があるが、それだけの力、影響力はすでになかったのは明白で、黒幕など到底務まらない、歴史的にも役不足である。
結局は鞍と言う毛利領に行き、そこで幕府のママゴトをしていた。
一方、秀吉はこの会談で毛利側としっかり人脈を構築していたのはいうまでもない。

==ちょこっとコラム==
秀吉はマジシャンかも知れない。当サイト独自の仮説をここにまとめて見ました!!
名付けて・・・
本能寺の変の黒幕はやっぱ秀吉か?作為的誘導説

本能寺の変が勃発する数年前から秀吉は準備していた!?


羽柴秀吉は毛利との交渉窓口で取り次ぎ役だ。
安国寺恵瓊が羽柴秀吉を評した書状が存在する。

「信長の代五年、三年は持たるべく候、明年辺は公家などにならるべく候かと
見及び申し候、左候て後、高ころびに
あをのけにころばれ候ずると見え申し候、藤吉郎(秀吉)、さりとてはの者にて候」

恵瓊は妙な秀吉評をこの時、残していた

「信長は三年から五年は此の後続くだろう。公家にもなるだろうが
すっころんでしまうだろう。秀吉はなかなかの人物である」

安国寺恵瓊は何を持って信長の事変を予想したかはわからないが、気になる評である。
また秀吉に好感を抱いていることに、ちょっとした不気味さを感じざるを得ない。
秀吉が順調に中国征伐を進めていたその天正十年(1582年)六月三日の深夜、長谷川宗仁、前野長康または杉原家次の飛脚により二日、本能寺にて信長が横死したことを秀吉は知ることになるのである。
秀吉が三日深夜に本能寺の変を知ったということは、毛利側はどうであろう。
定説では街道封鎖して事変のことは何があっても隠し通したことになっている。
しかしそんなことが可能であろうか。
陸路だけでなく海路もあるのだ。
道無き道を行くことだって可能だろう。
噂というのはどこからともなく伝わってしまうものなのである。
【黒田家譜】では天正十年六月四日、黒田官兵衛は人質引き渡しの事早々に渡す旨毛利側に申し渡したが毛利輝元の陣へも都より因幡堂の金井坊という山伏が来て本能寺の変について告げたと記載されている。
毛利輝元は本能寺の変を知っていたのだ。
しかし史実として毛利と羽柴は和睦を結び、羽柴秀吉は中国大返しを行い、明智光秀を山崎の合戦で討ち滅ぼすことになる。
なぜ毛利はそれを許したのだろうか。
それは、毛利家には天下統一することを望みとしていなかったからだ。
毛利家の悲願は”毛利家の永続”。
吉川元春は人質差し出しに反対したが小早川隆景はそうではなかった。
良将隆景は今秀吉を打って天下を望んでも四方八方の敵との戦いは難しく、天下を得たとしても長くは守れない。
それに毛利輝元では天下は治まらないとまで言っていさめたと【黒田家譜】には記載されている。
戦国大名だからといって必ず天下統一を望まなければならないことはもちろんない。
毛利家は和睦することで血流を絶やさず存続を望んでいたのである。

==ちょこっとコラム==
なんかね、色々と陰謀説が渦巻いているんだけど、天下統一前の信長を殺した明智光秀の真意としては
政治的な理由は弱いように思えてならないのよね・・・
本能寺の変ミステリー信長を襲った明智光秀の殺意とは?

==ちょこっとお知らせ==
本能寺って信長が死んだ時で既に三回目だったんだよね!焼け落ちたの。元々呪われていたのかも知れない。
実はその本能寺には怪談百物語にも登場している。それを題材にした超短編小説を発表!
【怪談】本能寺の蝿女

秀吉の密談は本能寺の変の裏側であった!?


羽柴秀吉と小早川隆景の交渉はお互い、本能寺の変を知りつつ、毛利側は秀吉の「信長の仇討ち」を支援する形となったのだ。
秀吉は明智打ちは容易いことだが万が一の場合は後詰め(援軍)をお願いすると言っている。
これは暗に毛利側を信頼しているという意味だ。
【黒田家譜】にはこれを聞いた小早川隆景が感激の涙を流したと記している。
定説では毛利輝元は後から本能寺の変を知ったとされているがそうではなかった。
毛利側ももちろん知っていたのである。
しかし天下の流れを読み取った毛利家が羽柴秀吉をこの場で打つことをせず、秀吉に逆に恩を売る事で「毛利家の永続」を計ったのだと思えてならない。
両家の思惑が一致したことで早々に秀吉は次の行動に移ることができたのだ。
和睦条件は継続して両家交渉していくことになったのだろう。
決着したのはそれから三年のちのことである。
秀吉は自身の政権下の五大老の五大名の内、小早川家と毛利家をその地位とした。
それほど絶大な恩があったのだ。
そしてその地位こそ、この時秀吉の密談があったことを証明している。
毛利家にとって本能寺の変とは「奇貨」だった。
こうして目の前の敵を味方に取り込んで羽柴秀吉は中国大返しを行い、明智光秀の「時」を奪ったのである。

==ちょこっとコラム==
斎藤利三が本能寺の変の首謀者ではないかって説がある。これ、それほど大外れで突拍子もない説・・・
とは思えない史実があったりする!!
本能寺の変は斎藤利三に原因あり?核心でなく、きっかけ?

神業!中国大返しの裏側

【黒田家譜】によれば秀吉はすぐにでも上洛して光秀を打ちたかったが和睦し人質をとっているとはいえ、毛利の大軍団に追撃されることを恐れて動けなかった。
そこで備中高松城を水攻めにしている、その堤防を切っておとし、大洪水にして追撃できないようにした上で六月六日に秀吉は退陣したと書いている。
これをそのまま信じると秀吉が姫路城に到着したのは七日深夜である。
たったの一日で岡山県岡山市あたりから姫路市まで引き返したことになる。
直線距離で約72km。
秀吉はフェラーリにでも乗っていたのだろうか。
二万騎を率いて一日で到着する距離ではない。
確かに秀吉は信長信忠を迎える為道を整備していたことは確かだがそれでも無理がある。
運動不足の芸能人が42.195kmマラソンに参加して心肺停止したニュースが流れたことがあったがそれよりも長い距離だ。
まぁ、戦で命のやりとりをしている兵が運動不足ということはないだろうがそれでもどう頑張っても説明がつかない。
これは【黒田家譜】の誤りだろう。
【武功夜話】によれば秀吉は軍隊を二つに分割して2ルートで帰還したとなっている。
秀吉の実弟の羽柴秀長が殿(しんがり)を勤めたようだ。
京から備中高松へ信長横死の悲報を伝えた使者は山陰道を通っていた。
大事な使者が無事に通過したことを謝意を記した、丹波の国人衆夜久主計頭宛の書状が残っている。
その送り主は羽柴秀吉ではなく、秀長である。
羽柴秀長が六月五日に書いたものだ。
これはおそらく殿(しんがり)として備中高松に残っていた秀長が書いたのだろう。
秀吉が書く余裕があれば秀吉が書いていたのではないだろうか。
では秀吉はそのころどうしていたのだろうか。
実は六月四日の時点で退却を始めていたと思われる。
【黒田家譜】によると六月六日に堤防を切っておとし、大洪水を起こして退却したとある。
しかしおそらくこのタイミングで退却したのは秀吉ではなく、殿(しんがり)で指揮をとっていた弟の秀長だったというのが事実ではないだろうか。
秀吉は六月五日に野殿に入っている。
中川清秀が秀吉の動向を探る書状に対する返書を書いたのもこの日、この場所であったのだ。
定説ではやはり【黒田家譜】の通り秀吉は六月六日まで備中高松にいたとするがすでに説いた通りの理由であり得ないだろう。
ここは野殿に本当にいたとするのが妥当だ。
秀吉は途中船で移動して六月六日の午後四時頃に赤穂岬に着船している。
そこから姫路城まで再び陸路で到着は七日深夜だった。
しかし全軍が姫路城に到着したわけではもちろんない。
実は秀吉以下十六名のみが到着したにすぎなかったのだ。
秀吉は八日は休息としており姫路城に留まっている。
上方の情報収集を行っていたことはもちろんだがそれよりも自身の軍が帰還するのを待っていたのである。
まぁこのスピード感についてこれるのは騎乗した兵くらいだろうということは想像に難しくない。
九日、秀吉は姫路城を出陣して明石を通り、兵庫港(兵庫県神戸市)あたりで野営している。
そして六月十一日に尼崎に到着したのだ。
備中高松から姫路の強行軍を考えると、姫路から尼崎までは比較的ゆっくりペースで進んでいる。
光秀の動向、諸将を味方に引き入れることを進めながらのため仕方がなかったがそれよりもやはり自身の兵がまだまだ追いついていなかった。
結局天下分け目の合戦の山崎の合戦に間に合わない兵も多々いたということだ。
当然ではないだろうか。
備中高松から山崎まで実に250kmもの道のりである。
それを四日に出発して八日間で、行軍したので当時としてはこれは尋常ではない速さなのだ。
当然、光秀は全く予期していなかったのだ。
秀吉軍はその代償に、疲労困憊状態で戦どころではなかったかと推測する。
しかしそれまで成り行きを見守っていた近畿の諸将が挙って秀吉側に味方したことが大勝利につながったのである。
その根本原因は大義名分にある。
秀吉は山崎の合戦で総大将として信長の息子、織田信孝を祭り上げている。
それは「信長の弔い合戦で逆臣明智光秀を打つ」という大義名分を手に入れる為だ。
それに、四国征伐前のフレッシュな軍兵を手に入れるため。
仮に秀吉と光秀の間に密約があって、秀吉が光秀を裏切った場合は光秀も”秀吉も加担者”という流言を流すことができただろう。
しかし内実は秀吉VS光秀でも公式の総大将が信孝であれば「信長の弔い合戦」というのが事実であり、そこは曲げようがない。
秀吉は実に巧妙にそして慎重に事を運んでいたということになる。

==ちょこっとコラム==
本能寺が焼け落ちた後、信長の屍体は消失していた。骨すらなかった!!!当時の捜査能力では発見できなかったのか?実はそうではない!とんでもないところに信長は埋められていた!
本能寺の変ミステリー!信長の遺体は発見されている

==ちょこっとおまけ==
秀吉といえば、城攻めの名手!!秀吉の伝説の中でも悪名高い城攻めといえば?実際どのような様子だったのかまとめてみた!!!
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