本能寺からの信長の遺体消失マジック!行方を追う
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- 本能寺の変で消失した信長の遺体
- 本能寺から走り去った信長の首
- 信長の遺体が消失したタイムラグ
- 近衛前久は本能寺急襲を知らなかった
- 西山本門寺の口伝は伝説か?史実か?
本能寺の変で消失した信長の遺体
本当に信長の遺体は本能寺になかったのか?
1582年10月、羽柴秀吉は京の大徳寺で大々的に信長の葬儀を取り行ったけど、肝心の信長の遺体はなかった。
御骨、沈香(香木)を以て仏像を彫刻し、棺槨の中に納め奉る。
惟任謀反記より
【惟任謀反記】では香木にて仏像を彫らせて、棺桶におさめたと書かれている。
フロイスの日本史にも信長の遺体がなかった事が奇怪な事件として描かれている。
我らが知り得た事は、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄した人が、毛髪といわず骨といわず灰燼した事である。
フロイスの日本史より
ここでは骨すら見つからなかったとある。
ここから「信長は実は生きていた」とか、「爆死した」とかさまざまな憶測を呼んでいるがその後の歴史に登場しない信長が脱出していたことはまぁ、ないだろうね。
また爆音がしたら、フロイスがそう書いてるはずだ。
なぜならフロイスがいた南蛮寺は本能寺から200mくらいしか離れていなかったからね。
ではよく燃えて骨すらなくなったのか?
火事レベルでそれも考えにくい。
となると、「骨すらなかった」のは単純に信長の遺体は本能寺から移動して、本能寺になかったと考える方が自然かも。
実は現在、信長の首が眠る場所として本物っぽい口伝が確認されている。
それは次の通りだった・・・
|チョコっとコラム
なぜ明智光秀は裏切ったのか?まずは原因推測ミステリーに興味のある方
→本能寺の変の黒幕はやっぱ秀吉か?作為的誘導説
本能寺から走り去った信長の首
静岡県富士郡芝川町の西山本門寺に衝撃的な口伝が存在している。
「天正十年六月二日京都本能寺の変で討ち死にした織田信長の首を囲碁の初代本因坊算砂「日海」の指示により原志摩守宗安(はらしまのかみむねやす)が信長と共に自刃した父胤重(たねしげ)と兄孫八郎清安の首と共に炎上する本能寺より持ちだし信長の首をここ駿河の、西山本門寺に納め首塚を築き、柊(ひいらぎ)を植えたのである。第百代後水尾天皇のご息女、常子内親王の御帰依をうけた、当山中興の祖十八代日順上人は原家のご出身でご自筆の内過去帳に本因坊日海上人と織田信長公の法号を記し、手厚くご回向されておりました。」
この西山本門寺と信長公首塚については、古くから地元では信長公の首塚が本堂奥の大柊のもとに安置されているということが口伝としてあったらしい。
本能寺の変で信長公と一緒に死んだ原一族が残した『原家記』にそのことが記されている。
原志摩守が混乱の中から父と兄、それに信長公の首を持ち出し、山道伝いに駿河にたどりつき、 富士郡本門寺の本堂裏手に三つの首を埋めたと。
「この西山本門寺には信長の首塚が代々ひそかに言い伝えられている」
と、現在の第49代貫主日光上人がこういった口伝があったことは本当だと証明しており、状況証拠となる過去帳も発見。
それが第18代・日順上人の内過去帳で、日順上人という人物は『原家記』を残した原一族の出で、同寺復興のため、朝廷・公家の支持を得て江戸幕府相手に寺格復権の大運動を繰り広げた傑僧だったみたい。
その過去帳には旧暦6月2日に「天正十年六月、惣見院信長、為明智被誅」の記述が残されていた。
ただ、この過去帳、一度火災で消失した上で、記憶を頼りに書き直した経緯があったりはするのが気になるところではあるんだよね。
だけど西山本門寺では歴代上人の口伝で信長公を供養してきたっぽい。
変の前夜に信長が本因坊算砂と鹿塩利賢に囲碁の対局をさせていたことはよく知られているが、本因坊算砂は翌朝まで本能寺に留まり、戦乱に巻き込まれた可能性が高い。
実は他に博多の商人で茶人でもある島井宗室も本能寺に宿泊しており、脱出に成功してることからもあり得る話かもしれない。
| ちょこちょこコラム |
明智光秀は死んでなかった!としてもフシギじゃないのよ!
→明智光秀は本当に死んだのか?光秀生存伝説ミステリー
寺伝によれば、本能寺の変当日、信長の供をしていた原志摩守が本因坊算砂の指示により西山本門寺に運んで供養したのだという。
本因坊算砂は西山本門寺の境内に本因坊という坊舎を作って住んでいたことや、原志摩守の子、日順を弟子とし、寺の第18代上人としていることからもかなり関係深かったことが想像できる。
また生前、信長が信頼していた徳川家康のお膝元に西山本門寺が存在している位置関係からも明智光秀の手にかかる可能性が最も低い場所と言える。
ただ、ひとつ疑問に残ることがある。
それは信長の遺体、つまり首をそんな遠くへ運ぶ時間はあったのか?ということ。
定説では信長は本能寺を取り囲まれていて逃げ道がないことは明白だったはずなんだよね。
なんと実はタイムラグがあったっぽいのよ
信長の遺体が消失したタイムラグ
信長は本能寺が取り囲まれる前に裏切りを察知していた可能性がある。
是れは謀叛か、如何たる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し侯と、言上侯へば、是非に及ばずと、上意候。
信長公記より
信長は「何者が裏切ったか」と森蘭丸に尋ねている。森蘭丸は「明智が者と見え申し侯」と答える場面はこれまで幾度となく歴史ドラマで演じられてきた。
大抵、この時、本能寺の周りに明智光秀の旗がぐるりと取り囲んでいるシーンになるが、果たしてそうだったのだろうか。
本能寺へ進軍した雑兵、本城惣衛門の覚書なる史料がある。
この生々しい当時の様子を伝えてくれる史料によれば、奇妙な事に気が付く。
「そこから本能寺内に入ろうとしたところ、門は簡単に開いて、中は、ネズミ一匹いないほど静かでした。・・・本堂の表から中に入ったところ、広間には誰もいなくて、蚊帳が吊ってあるだけでした。」
本城惣衛門覚書より
信長が軍勢を連れていなかったことは事実なんだけど、誰も門を守っていないというは奇妙で、しかも「蚊帳が吊ってあるだけ」なのもおかしい。
そこに誰か寝てたはずなんだよね。
既に「もぬけの空」だったことがうかがえる。
ということは本能寺が取り囲まれる前に信長は明智光秀の裏切りを察知していた事になる。
当然だろうね。
だって、明智軍は1万3000の軍勢だったとか。全員甲冑を身につけた、戦支度。弓や鉄砲の弾薬のカサカサという騒音もあっただろう。
いくら気をつけても1万3000人分の騒音はすごかったでしょう。
信長は本能寺が取り囲まれる前に、察知して対応を迫られたのだ。
ここから第一級史料、信長公記では信長の死闘のシーンになるんだけど、実はこれも史実ではなかったのではないかと思っている。
詳しくは別の記事にまとめているのでそちらを参照されたい。
→本能寺の変、信長信忠替え玉疑惑?ミステリー
京とは平城京、平安京と長い歴史があり、町は碁盤の目のように整えられており、それが敵を持つ戦国大名には大変危険な街にしていた。
そのため、戦国大名は京に長期滞在しないように気をつけていたほど。
それにくわえて京はその地形から、丹波、鳥羽、鞍馬、山科の四方面の要衝を抑えられると袋のネズミ状態となる。
本能寺に迫る「明智光秀」がそれをおさえないはずはない。
そう考えると信長の絶命は決定的だったのだ。
信長が最後にできたことは明智光秀に「信長の遺体」つまり、首を渡さないことだけだったと思われる。
信長は取り囲まれる前に首を逃がす必要があったのではないか?
しかし、小規模の戦闘があった。
本能寺方面から鉄砲音と炎があがっているのをフロイスの日本史は記載している。
鉄砲が放たれたということは少なからず抵抗者がいたということだ。
これはいわば、首を逃がすための時間稼ぎだったと思われる。
信長は取り囲まれる前に早々に、あっさり切腹していた可能性が高い。
そしてこのタイムラグを利用して首を逃したのだ。
ここで私は当初、信長の首を西山本門寺に埋葬したのは本因坊算砂ではなく、近衛前久ではないかと考えていた。
近衛前久は本能寺急襲を知らなかった
本能寺の変前日、天皇以外の朝廷の公家がほぼ全員本能寺を訪問していた。
その中でも太政大臣だった近衛前久はとりわけ信長びいきだったっぽく、本願寺との11年抗争に終わらせたり、武田家が滅んだ甲州征伐も信長と共に出陣していたりと、信長が「戦乱の世を終わらせる光」だと信じて疑わなかったところがあったっぽい。
そんな近衛前久が京を訪れた信長が変の前夜に本因坊算砂と鹿塩利賢との囲碁の対局を楽しんでいた時、側にいたのではないか?泊まり込んでも不思議ではないと思えた。
しかし、近衛前久が変当日、本能寺に滞在していたという史料は存在していない。
当初、なぜ近衛前久が本能寺にいて、信長の首を西山本門寺に逃したと思ったかというと、実は西山本門寺は近衛家ゆかりの寺なのだ。
この西山本門寺には後水尾天皇夫妻の位牌が安置されている。
この後水尾天皇の母は近衞前子といい、前子の父は近衞前久なのだ。
そのため、信長の遺体を運び出し、首だけにして近衛家とゆかりのある西山本門寺に運ぶよう命じたいのは近衛前久ではなかったかと疑惑の色を投げかけていた。
だけど後水尾天皇夫妻の位牌を安置させたのは江戸時代の1603年以降、第18代日順上人が図ったことであって本能寺の変当時は特に関係がなかったことで疑惑の色は色あせてしまった。
それに京の二条城周辺に居を構えていた近衛前久がわざわざ本能寺に泊まり込む必要性もない。
それに同じ二条城近辺に居住してた勧修寺晴豊は、深夜遅くまで起きていたにも関わらず、本能寺が軍勢に取り囲まれていたことに気がつかなかったようだ。
つまり、近衛前久も気が付くのはかなり遅かった、本能寺襲撃時は気がついていなかったっぽい。
ということでおそらく、信長からその場にいた本因坊算砂に首を持って逃げろと命じた可能性の方が高い。
では信長の首は逃げられたとして、信長の遺体はどうなのか?
首がない遺体は判別不可能だから、「信長の遺体はなかった」となったのか?
実は持ち運びだしたところを目撃してた証言が残っていたりする。
西山本門寺の口伝は伝説か?史実か?
『笹舎漫筆』という小倉藩の学者の記録に、藩士浅田市三郎の祖母は本能寺の変の時に現場に居合わせたというモノがある。
その女性の話では奥の間で信長が血を流しているのを発見して駆け寄ろうとしたが、部屋から押し出された。
仕方なく台所へ行くと、中間(ちゅうげん)が信長を背負って裏から出て行くのを目撃したとの事なのよ。
史料の信憑性は?
というといかがわしいレベルというところでしょうか。
ただ、面白いところからこの話の信憑性が私の中で高まっている。
それは本能寺襲撃時、最初に侵入した雑兵、本城惣衛門覚書なの。
本能寺の、ネズミ一匹いない門から侵入した惣右衛門
「本堂の表から中に入ったところ、広間には誰もいなくて、蚊帳が吊ってあるだけでした。寺の台所の方を探索したところ、白い着物を着た女を一人、捕らえましたが、侍は誰もいませんでした。捕らえた女は「上様は白い着物を着ておられます。」と言ったのですが、その時は、その女が言った「上様」が「信長殿」とは分かりませんでした。」
本城惣衛門覚書より
本城惣右衛門はなんと台所で女を捕らえていたのだ。
これこそ、織田家の遠縁にあたる津田姓だった浅田市三郎の祖母だったのではないか?
「中間(ちゅうげん)が信長を背負って裏から出て行く」
この中間(ちゅうげん)というのは武家奉公人のことらしい。
武家の家来の位置づけとしては中間の上に武士の中で最下級の足軽が、下には飯炊き、水汲み、薪割など単純作業に従事する下男がいる。
下男と足軽の間という位置づけから中間と呼ばれてたみたい。
信長公記に本能寺の変で死んだ配下武将の名前が記載されているが、原志摩守宗安の父と兄の名前はない。
それは当時、中間という中途半端な身分で名前で認識されるような身分ではなかったとしたら、あり得る話かもしれない。
つまりは、この中間が原志摩守宗安で首だけではなく、信長の遺体を燃え盛る前の本能寺から持ち出していたということではないだろうか。
実は信長の遺体についてはもうひとつ逸話がある。
本能寺近くにあった京都阿弥陀寺の住職清玉上人が本能寺の敷地内にあった墓地の後ろにある藪の中で織田方の数人の武士が信長の遺体を 焼いていたので頼み込んでその骨をもらいうけて本能寺を脱出、阿弥陀寺に持ち帰ったというもの。
現代人の感覚からすると小首をかしげる状況だ。
薮の中で火を起こしていると煙が立ち上がり、「そこでないかを焼いています」と宣伝するようなものであり得ないと単純に思っていた。
現代社会では、煙が上がっていると何事かと気になる感覚でいるとちょっと違うかもしれない。
当時戦国時代では野外で火を起こす事などよくある事で、システムキッチンなどない世界なのでそこらじゅう煙が上がっていても気にならなかったかもしれない。
つまりは、この藪の中で信長の遺体を焼いていたのは原志摩守宗安だったのではないか。
首のない遺体は阿弥陀寺に葬られ、大事な首は遠く西山本門寺へ持ち去ったというのはどうだろうか。
西山本門寺の本堂裏には今も立派な柊が植えられおり、ヒイラギとは魔除け、祟り除けの意味がある。
無念であったであろう信長の気持ちを察して心安らかにと埋めた人が考えたのだろうか。
このヒイラギは樹齢400〜500年以上だということだけは覆させない事実なのだ。