本能寺の変、信長信忠替え玉疑惑?ミステリー

「本能寺の変で信長の戦闘は本当にあったの?」
「本能寺の変のドラマシーンは創作なの?」

そんな疑問を持つ方に向けた記事になります。(2020/09/09 更新)

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  1. 本能寺の変、信長信忠替え玉疑惑ミステリー
  2. 誰も見ていない信長の最後
  3. 信忠の京滞在を知らなかった光秀
  4. 変直前の光秀の動向
  5. 2度3度と敵を追い返す死闘

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本能寺の変、信長信忠替え玉疑惑ミステリー

1582年6月2日、京本能寺が燃えていた。
京ではこういった騒動は日常だったため、特に当初は大した騒ぎになっていなかったって言われてる。
歴史ドラマの本能寺の変シーンでは一番の盛り上げシーンだよね?
信長が弓や槍で最後の大暴れして自身の最後、死に華を咲かせているところはいつも胸が熱くなる。

でも信長は本当に本能寺で最後、戦ったのか?

戦うってことは雑兵に姿を見せたってことで、信長ほどの大大名が最後に雑兵に首を取られるような屈辱、リスクを背負ってまで戦う意味はないと思うのよ。
確かに信長の波乱万丈の人生を飾るのにこれ以上ない最後ではあるんだけどね。史実か?って言われると疑いたくなる。
でも信長の戦闘シーンはドラマでの脚色ってわけではなく、第一級史料と呼ばれる、太田牛一著「信長公記」にきちんと記載されている。
信長関連の史料にある本能寺の変シーンはどれもほぼ同じ記述になってる。
だからこそ、史実だと言えるのかもしれないんだけど、多くの史料は当時おそらく太田牛一の「信長公記」を参考に書いたものだと思われ、記述が大体同じになるのは当たり前かも?って思うのよね。
それで詳細に記載した太田牛一自身は本能寺の変に関わっていたのか?って言うと・・・

誰も見ていない信長の最後

太田牛一は実はこの時京へいませんでした。
そんな太田牛一はなぜ著書「信長公記」に信長の最後を詳細に書けたのか?
信長の近くにいた武士は変後、光秀の実施した大規模な落ち武者狩りで大方討ち取られて、本能寺の前に首の山ができたとか。
つまり、目撃者がいないんだよね?
でも太田牛一は信長の側にいた女衆に聞いたと証言を残している。
でもどこまで聞けたと思う?
槍や鉄砲、兵の腕や足、血しぶきが飛び交う中で、「その女衆」は信長の最後を見届けたと思う?
私の数少ない経験から言わせて頂ければ、女性はもっとドライなのよ。
数千、数万と言われる明智光秀の兵に囲まれている信長についていくだけの価値はなかったと思う。
こうなっては、信長なんて何の価値もない!
ここにいては殺されてしまう!
そんな恐怖に我を忘れ、近づいてくる死の恐怖を払い除けるだけで精一杯だったはずなのよ。
つまり、この時、女衆は大混乱状態だったの。
なのでその女衆もおそらく何も見ていなかったとみるべきではないか。
そういった状況からも信長が刀や槍、弓を持って雑兵と戦ったというのは「信長公記」でもフィクションだったと思えてならない。
ではなぜ信長が戦ったことになったのでしょうか。

明智光秀の急襲を受けた本能寺の変。たった2時間で終わった中で信長は果たして死闘を演じたのか?
本能寺の変で信長は戦ったのか?

信忠の京滞在を知らなかった光秀

実は本能寺が炎に包まれているのを妙覚寺で驚愕の思いで眺めていた人物がいた。
それは嫡子織田信忠。
なぜか、明智光秀は信長と信忠を同時に包囲していない。
織田信忠が包囲されたのは二条城に入ってからなのよ。
それは光秀が京に織田信忠が滞在していたことを知らなかったからではないかと思ってる。
信忠は徳川家康一行が安土から京見物に来ており、5月27日は堺見物に出かけ、信忠も案内役として動向する予定でした。
はじめ接待役だった明智光秀はスケジュールを完全に把握していたことは当たり前。
そのため、信忠はこの時、徳川家康一向と共に堺に下向していたと思ってた。
信忠の最後の書状が残ってる。
それは信忠から森蘭丸に宛てたもので、信長が1両日中に安土を出発すると聞き及び、堺見物を取り止めて信長を京で出迎えるという内容だった。
一方堺では千利休が娘婿に宛てた書状が残ってて、その5月28日付の書状では、信忠殿が来ないんだって!
せっかく力入れて準備してきたのにシラけるよなぁ!
がっかりしたよ。
我々の面目は失われたよ!って散々愚痴っていた。
そう、それはまるで「ドタキャン」されたようにである。
信長が京、本能寺に入ることが判明したのはおそらく5月27日。
そして本能寺に到着したのは5月29日。
信忠もそれに間に合うよう、急遽京で信長を出迎えることとなったのよ。
そのため、明智光秀は京に織田信忠がいることを知らなかったと思うわけ。

変直前の光秀の動向

一方光秀は?というと、5月28日、あの有名な愛宕百韻に参加。
「時は今・・・」の歌を読んだかどうかわからないけど、この日ね。
そして5月29日、光秀は羽柴秀吉の中国征伐の援軍のため、鉄砲の備品や荷物などを西国へ送ってる。
これは偽装工作なのか、それともまだこの時点では謀反の意思はなかったととるべきか?
おそらく、西国へ発送したのが5月29日で、それまでに粛々と援軍準備は進められているはずと考えると、偽装工作でもなんでもなく、光秀の謀反とは切り離して考えるべきかもね。
光秀は森蘭丸より、閲兵するため京へ来いと命令があったため、京へ向かうと周りには告げていたようね。
だけど、それが本当だったかどうかわからない。
6月1日、光秀は京へむけて出発。
京は盆地で鞍馬、丹羽、山科、鳥羽の4方面の要害を抑えられると逃げられないため、信長が京へ止まる場合も短期間のみだったの。
光秀はその一瞬の隙を突いた事になるのよね。
本能寺を急襲した本能寺の変は実は2時間ほどの短時間で決着がついている。
日本史の著者、宣教師ルイス・フロイスは本能寺から燃え上がり、鉄砲音が響いていたことを書き残している。
そのため、小規模の戦闘はあったと思う。
だけど信長の戦闘はなかった。
なぜなら、信長にとってもはや逃げることは不可能だと悟っている。
その上で最後にできることは自分の首を敵に渡さないことだけ。
そんな状況で敵の前に出て鉄砲で狙撃される恐れもあるのにノコノコと出てきて戦闘するとは到底思えないのよ。
信長は早々に切腹して首を逃していた。残された側近たちはその時間稼ぎに戦闘していただけだと思われる。
実は本能寺の変がそうやって早々に決着がついた頃、光秀に衝撃の一報が入ったのよね・・・

二条城で襲撃する明智光秀軍を追い返す死闘を演じた織田信忠

2度3度と敵を追い返す死闘

その明智光秀は二条城に織田信忠が入ったことを知り、そこで初めて信忠へ軍を差し向けて包囲するの。
そこで信忠は光秀軍に対し、もちろん多勢に無勢だったにもかかわらず、2度3度と追い返す死闘を演じる。
二条城は誠仁親王の居宅だったので奇妙なことが起き、戦闘は一時中断され、信忠は親王を退去させるのよね。
そして信忠は切腹して果てるんだけど、信長同様、その死体を敵に晒すことなく、灰にしたのよね。
朝が明け、京では大規模な落武者狩りが実施され、本能寺の前は首の山となり、
死臭で京中が匂ったらしい。
おそらく、当時でも大事件だったと思う。
誰もが意表をつかれた大事件だったので翌日話題は持ちきりだったはず。

「おいおい、何が起こったの?」
「信長様が殺されたって」
「え、マジで?」
「なんか信忠様もやられちゃったらしいよ」
「信忠様は死闘を演じ、バッタバッタと斬りまくったとか」
「え、信長様でしょ?それ!俺はそう聞いたよ?」
「あ、そうだっけ」

(京の民衆の噂話)

そんな風に京の人たちは口々に噂したに違いないのよ。
噂話なんてそんなレベル。

本能寺の変当日、
実は死闘で「死に華」を咲かせたのは信忠だったのよ。

それがいつしか「信長の死闘」として噂されたっていうのが本当のところではないかと思えてならない?
戦国時代、大将は敵に首を取られることを不名誉とされてた。
部下も最後の奉公として、主人の首を持ち逃げするというのは敵に渡さない常套手段でした。
そんな時代、雑兵に首を取られるような状況を自ら作るはずがないのよ。
豪勇信忠が例外だったとみるべき。
本城惣右衛門覚書によれば、彼が本能寺に入ったのはまだ完全に取り囲む前でした。
にもかかわらず、門番も誰もおらず、本堂には蚊帳がつってあるだけで誰も寝ていなかったことがわかっている。
明智光秀ほどの武将が攻めてきたからには周到に準備しているはず。
逃げられないと判断したに違いない。
ただ、信長は明智光秀が本能寺を取り囲む前に察知したため、自分の首を逃すスキがわずかにもある状況だったと推測してる。
そのタイムラグを利用し、首だけを逃したのではないか。
静岡県の西山本門寺にはその信長の首塚が本堂の裏手に隠れるように埋葬されているのがその証拠となるし、持ち出したのは近衛前久で山崎の合戦後、秀吉に追われた近衛前久は京から逃亡して徳川家康、今の静岡県へ逃亡している。
さらに西山本門寺とは、近衛家と縁の深い場所なのよね。
本能寺の変当日、信長の死闘はなかった。
だけど、私は個人的に「信長の死闘」こそ、波乱万丈の信長の最後を飾るにふさわしいフィクションだったように思うけどね。

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