実は秀吉がそういう風に操作したかもしれない
「天下とった秀吉だから、一番得した人物だから怪しいってことでしょ?」
「いろいろ黒幕説はあるけどなぜ秀吉なの?」
そういった疑問をお持ちの方が対象となる記事になります。(2020/08/07 更新)
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- 本能寺の変で、黒幕ミステリーはない
- 惟任謀反記が出版された時期
- 黒幕秀吉はなぜ正確に情報を得ていたのか?
- 実は以前から毛利とつながりがあった黒幕秀吉
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本能寺の変で、黒幕ミステリーはない
実は斎藤利三かもしれない。いやいや足利義昭かも!そうではなく、
徳川家康かもしれないし、長曾我部元親かも・・
いろいろと黒幕が存在するのはなぜだろうね?
一番の理由は光秀に動機が見つからないから!だろうね。
確かに1582年5月29日、変の2日前まで秀吉の援軍に行く準備をしていたことがわかっている。
それにこの時期、長曾我部元親から「信長の意のままに動く」という降伏の意思をもっていたことも新資料から判明している。
変以外で何も明智光秀が裏切るような情報が何もないのよね?
だから、明智光秀ではなく、黒幕によるクーデターで政治的な転覆があったのではないか?と考えられてきた。
でもね。それもまた辻褄が合わないのよね?
だって明智光秀が織田信長を殺した後、その黒幕は誰も名乗り出ていない。
偽書の疑いもあるんだけど、細川藤孝へ宛てた光秀の書状には「お前のためにやったんだ」とか無理やり感満載の理由が書かれている。
もし朝廷や足利家がバックにいたとしたら、彼らの名前が出てくるはずなのよ。
だって彼らの名前を使ったほうが権威性で優位に立てる。
ということは光秀単独説が俄然最有力説と思えてならない。
いや、そう思わせられているかもしれない。
この本能寺の変について一番最初の出版物はあの有名な太田牛一の信長公記ではないのよね・・・
惟任謀反記が出版された時期
本能寺の変が最初に出版されたのは惟任謀反記と呼ばれる史料で、1582年10月に出版されたもの。
本能寺の変は6月2日なので4ヶ月後の出版になる。
これには本能寺の変から山崎の合戦、そして織田信長の大徳寺での大葬儀まで書かれている。そうです。
この出版物は織田信長の葬儀に合わせて出版されている。おそらく、この時期、「羽柴秀吉って誰よ?」っていうのが巷に溢れていたのではないだろうか。
つまり羽柴秀吉はまだまだ無名だった。
今でもTwitterで多くの人に自分のツィートを見てもらうには有名人のツィートに絡んだ方が見られたりするんだよね!そこで面白いツィートだったりすると徐々に気にしてくれる人が増えてくるってわけ。
秀吉も一緒で信長の葬儀で、その知名度を最大限に利用したみたい。
というわけだから、惟任謀反記が忠実に歴史の事実を書いたかどうかは甚だ疑問っちゅうわけです。
でもね、秀吉の死後に書かれた太閤記に比べれば、まだ忠実だったかもしれない。
例えば、毛利攻めで備中高松に足止めを食らっていた秀吉に、敵と間違えて陣中に入った者がいてそいつから信長が本能寺の変で死んだことを聞いたとか。
これって当時の戦国時代では絶対にあり得ないのよね。まぁ、それは後述するとして、惟任謀反記では「注進」があったとはっきりと書かれている。
つまり、味方からの報告があったと。なぜ備中高松にいる秀吉が信用できる味方が京にいたのか?
黒幕秀吉はなぜ正確に情報を得ていたのか?
本能寺の変が発生した後、越後の上杉景勝は六月八日に「羽柴秀吉が毛利方へ捉えられたのでその救援の為に信長が出陣したが秀吉は死亡し、軍を返した信長は撤退の途中で津田信澄の謀反に遭遇して切腹した」という噂を聞きつけ、真相を調査するんだけど、まともに信長の死を確認できたのは六月十九日になってからなのね。
ちなみに津田信澄というのは織田信行の息子。
だから親父の敵討ちみたいな噂になっててありえそうな話なんだよね?
だけどこの時代、正確な情報を掴むのってかなり大変なのよね?
伝言ゲームだからね。
だから本能寺の変勃発の6月2日からなんと17日後にようやく信長が死んだ事実を掴んだの。
ちなみに山崎の合戦は6月13日。
秀吉がなぜ黒幕と思われるのか?
正確な情報を掴むスピード、移動のスピード。
あまりにも怪しすぎるよね?
1582年5月21日、徳川家康は信長の勧めで京、堺見物に出発する。
【信長公記】【宇野主水日記】【宗及茶湯日記】などの史料ではこの時信長から案内人として付けられたのは”長谷川秀一”と”西尾吉次”であったと記載している(※西尾吉次については記載されていない史料もある)。
【宇野主水日記】については織田信長の案内人のほか、信忠からの案内人として”杉原家次”がつけられたと記載されている。
他の史料には記載されていないということはつまり、これは誤記であろうか。
誤記だと判断する歴史家もいるが、案内人として長谷川秀一については記載が一致しており、杉原家次だけ誤記というのもおかしいよね?
【信長公記】【宗及茶湯日記】はさほど重要事項ではない、”案内人”をまとめて信長に指名された”長谷川秀一”に集約したと思う。
【宇野主水日記】は他の史料よりより詳細に記載していただけというのが妥当だと思う。
この”杉原家次”とは誰なんだということだがこの人物は、秀吉監修の【惟任謀反記】にも登場する。
この人ね。1583年に坂本城をもらっている。
坂本城っていったら、明智光秀の居城。
敵の城をそっくりもらうってこれほど名誉なことはないのよね?
案内人の長谷川と西尾は徳川家康の神君伊賀越にも同行しているが、杉原家次は消えてんのよね?
彼が京から備中高松まで馬を走らせ、「注進」したと考えられる。
彼はなんと秀吉の妻ねねの叔父にあたる人物で、秀吉の身内なんだよね?
これほど信頼できる情報源はないでしょ?
しかもなんか敵対していた毛利家とは結構古くからの付き合いみたいなのよね?
実は以前から毛利とつながりがあった黒幕秀吉
織田信長と毛利元就の付き合いは実は15代将軍足利義昭の追放劇まで遡る。
将軍の追放先として毛利家に白羽の矢が当たったのよ。
この時の毛利家の代表は安国寺恵瓊で、織田家の代表は羽柴秀吉だったというわけなの。
この組み合わせは?そう。
中国大返しをするために羽柴秀吉が毛利側と交渉した時の毛利家代表が安国寺恵瓊でしたよね?
長い付き合いなのよね?彼らは。
この時安国寺恵瓊は秀吉のことを
「信長は後3年くらいで天下をとるかもしれない。公家にもなるかもしれないが、すっころんでしまうだろうなぁ?
秀吉はなかなかの人物だよ」
(安国寺恵瓊より)
という言葉を残している。
実は秀吉は毛利家と同盟が正式に成立したのは本能寺の変から3年もあとなのよ。
清水宗治の切腹でその場はお開きにはなったけど。
その後毛利家は五大老の筆頭扱い。
それほど羽柴秀吉は毛利家に恩があったとみるべきでしょう。
秀吉がどうやって光秀を裏切らせたのかはわからないけど、マジックであるじゃない?
自分で選んでいるようで選ばされている系の技。
明智光秀はもしかしたら、秀吉に踊らされたかもしれないね。
でも惟任謀反記では「大恩ある織田信長公を裏切った腐れ外道」扱いされ、徹底的に悪者扱い。
それによって「黒幕なんてなかったんだよ」と我々も秀吉に踊らされているかもしれないね?