本当は光秀は死んでいなかったかも?
「明智光秀は本当に死んだの?」
「光秀生存伝説の真相とは?」
そんな疑問を持つ方に向けた記事になります。(2021/02/21 更新)
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- 明智光秀は本当に死んだのか?光秀生存伝説ミステリー
- 明智光秀の不可解な死の真相
- 光秀生存伝説
- 光秀の首騒動
- 「狡猾な秀吉に尻尾を巻いた光秀
- 荒深小五郎と名乗った本当の意味とは?
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明智光秀は本当に死んだのか?光秀生存伝説ミステリー
明智光秀は死んでないかもね?
天正10年6月2日、京本能寺で主君、織田信長を急襲し、死に追いやったその11日後の天正10年6月13日、中国大返しの強行軍で上京した羽柴秀吉軍と山崎で合戦となり、光秀はあえなく敗走する。
明智光秀は一旦勝竜寺城へ引き上げた。
その夜、闇に紛れて城を脱出して坂本へ逃げる途中、小栗口あたりで土民の落ち武者狩りに襲われ、死ぬという屈辱的な最後になってる。
当時を知り得る史料を参照してみよう。
明智(光秀)は同日午後一部の兵と一緒に前に占領した勝竜寺の城に入った。(中略)天明に至って城は降伏した。明智は城内にゐては安全でないと考え、宵の口に主城坂本に向って逃げた。彼はほとんど単身で、世人の言ふところによれば少しく負傷してゐたが、坂本には到着せず、どこか知れぬところに隠れていた。(中略)隣むべき明智は隠れていて、坂本の城に連れ行かんことを農夫等に請ひ、黄金の棒を多く与ふることを約したが、彼等は刀と黄金を奪はんと欲し、槍で刺して彼を殺し、首を斬った。
【イエズス会日本年報(1582年追加)】より
諸国より討ち捕りたる首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任が首あり。
【惟任謀反記】より
明智光秀の不可解な死の真相
明智光秀の首となれば、何よりもまず秀吉が点検するよね。
だけど散々点検して「たまたま」その中に明智光秀の首があったという感じに受け取れる。
今と違って写真がないから、誰が明智光秀なのか、一握りの人間しか知らなかったかもね。
捕った者にとってはこれ以上の殊勲はないんだけど、明智光秀と認識していたかどうかはわからないというか、【惟任謀反記】の記述からするとわからなかったんだろうね。
この記述から「はじめはなかなか光秀の行方が知れず、秀吉はほとほと困り果てていたが、懸命な首実検で点検する中で、誰が打ち取ったかわからないがたまたま見つかった」というように読み取れないだろうか。
ここで第一級史料ではないが『兵家茶話』、『翁草』に興味深い記述がある。実は岐阜県山県郡美山町中洞に残る光秀生存伝説があるのよね。
光秀生存伝説
「山崎の合戦で敗れ死んだのは光秀の影武者荒木山城守行信で、光秀は荒深小五郎と名前を変えて中洞の地に隠れ住み時節の到来を窺っていた。慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦が勃発するやいなや、家康方に味方するため一族郎党を引き連れて出陣したのだが途中、増水した藪(やぶ)川(岐阜県揖斐郡川合村)を馬で渡ろうとした際、馬もろとも流され溺死した。(享年75歳)」
明智光秀生存伝説より
ちなみにここには明智光秀の墓もある。「荒深」という姓は明智光秀の代わりに死んだ荒木山城守の忠誠に深く感じての「荒」と「深」からきている。
そして西洞の寺の林間に隠宅を建て、乙寿丸と共に住んでいた。
その後光秀は雲水の姿になって諸国遍歴の旅に出たのであるが、18年後の慶長五年(1600年)関ヶ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発したが途中藪川の洪水で馬と共に、押し流されて死んだため、死骸を山城守の子、吉兵衛が持ち帰り埋葬したということだ。
現在の歴史上では天正10年6月13日に山崎の合戦で敗北した後、落ち武者狩りで死んでいる。
詳細に記載すると坂本を目指して落ち延びる途中、本経寺付近の竹薮で落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたと伝わる。
竹槍で深手を負った光秀は股肱の家臣・溝尾茂朝に首を打たせ、茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、あるいは坂本城まで持ち帰ったともいわれる。
また谷性寺と光秀の墓がある西教寺の記録によると、明智光秀のものとして首実検に出された首級は3体あったが、そのいずれも顔面の皮がすべて剥がされていたという。
明智光秀のものとして実検された首級が暑さで著しく腐敗していたことは、他の多くの史料にも記されている。
これらのことから、明智光秀が実は死んでいなかったとしても全く不思議ではない。首実検の後、明智光秀の首級、または光秀とされる首は京都の本能寺にさらされ、さらに胴体と首を再接続させて粟田口に磔にされた。
その磔の刑があった天正10年からおよそ60年を経た寛永年間、わざわざ小栗栖に出かけて事件の聞き込みをした者がいたらしいのよ。
ところが、明智光秀の首を発見したとされる中村長兵衛なる男のことについて知っている村人は皆無であったという史料も存在する。
当時の村民にとって明智光秀の首の発見といえば大事件だったろう。
「光秀の首を発見した長兵衛」の名が地域伝説的に浸透していたであろうことは想像に難くない。
しかし実際には「そんな奴は知らない」と言うことなのよね。
光秀の首騒動
他の明智光秀死亡に関する記述は以下のようである。
『山階(山科)にて一揆に叩き殺され了んぬ』
多聞院日記』6月17日の記録より
『日向守(光秀)山科にて一揆の手へ討ち取る』
天正日記より
『明智め山科の薮の中へ北げ入り、百姓に首を拾はれ申し候』
浅野長政宛ての秀吉書状より
「百姓に首を拾はれ申し候」とは衝撃じゃない?
共に逃げた家臣に見捨てられたということ?
通常、最後の奉公として主人の首を持ち逃げして敵にわたらないようにするが首をそこらへんに捨てて家臣は逃げたということか?
それとも首に価値を見出さない者達に身ぐるみ剥がされて鎧や兜、刀、服やフンドシまで根こそぎとられて首だけ放り投げられたか?
でも身の回りの物が必要なら、打首しないよね?
ということは誰かがわざと明智の偽首を落としていったか?
もしかしたら死んではいなかった可能性もやっぱり捨てきれない。
他の史料【美濃志】や【明智旧稿実録】でも、光秀には彼に酷似した影武者がおり、その影武者が身代わりとなって小栗栖で自害したと記載している。
光秀一行はこのままではいずれ捕まることは時間の問題だと悟っていた。
秀吉はなんとしても明智光秀の首を取らないと世間的にもカッコがつかない。
秀吉の顔を立ててやりさえすれば、「光秀の首」にこだわることはない可能性がある。
そこで影武者が代わりに切腹することとなった。
その首をその場に置き去りにして光秀は逃げ去った。
その首は夏の暑さに腐敗が進んで張り付けにした時には目も当てられない悲惨な状況となっていた。
しかし秀吉側からすると見せしめという意味でも「仇を打ったヒーローという立場」としても問題なし、というのはどうだろうか。
この方がなんとなくしっくりくるような気がしないだろうか。
狡猾な秀吉に尻尾を巻いた光秀
大坂岸和田市にある本徳寺には明智光秀の位牌と肖像画がある。
あの線が細い気弱そうな男の絵で、明智光秀といえば!と日本人なら誰もが見るあの肖像画なんだけど、強烈な秘密があるのをご存知か。
その肖像画の裏には「放下般舟三味去」とある。
これは”仏門に入って寺を去った”という意味になるのね。
また位牌の裏には「当寺開基慶長四年巳亥」とある。
これは慶長四年(1599年)、当寺院を創始するにあたって経済的支持を与えた者という意味になる。
あわせると慶長四年(1599年)に本徳寺、当時は雲海寺といったそうだが当寺を建設するに当たって明智光秀は経済的に援助した。
そして仏門に入って寺を去っていったということになる。
仮に光秀が死んでいなかったとしても羽柴秀吉には全く影響はない。
世間では反逆者のレッテルを張られた明智光秀に誰が味方するのか。
たちまち秀吉に取り囲まれて殺されるのがオチだ。
無一文となった光秀には大軍を率いる財力も力もない。
それに政治的にも死んでしまったのだ。
変から四ヶ月に大々的に信長の葬儀をやった秀吉はそのタイミングで【惟任謀反記】を作成して「謀反人光秀」を宣伝している。
羽柴秀吉にとっては「反逆者、光秀を倒し、亡き信長様の無念を晴らした」という事実のみで、世間を納得させるのは十分だろう。
【惟任謀反記】を出版したのはこんな意味が来れられていたのではないか・・・
「おまえは謀反人として死んだ。おとなしく死んでいればそれ以上、手はださない」
という秀吉流の「生存していた光秀」へのメッセージだったかもしれない。
荒深小五郎と名乗った本当の意味とは?
仮に明智光秀が生きていたとして、何故中洞に隠れ住むことができたのであろうか。
【美濃土岐明智古戦史】【武芸川町史跡名勝史】という史料を信じれば、中洞は光秀の故郷ということらしい。
光秀の父は土岐政房の異母弟土岐四郎基頼であり、母は中洞源右衛門の娘であったという。
そして土岐氏支族明智光綱に子が無かったので光綱の養子となり明智光秀となったようだ。
これが事実だとすると光秀が中洞に逃れてきたというのもあり得るように思われる。
ちなみに現在も中洞一帯には荒深姓が多く残っていて、これは光秀の子乙寿丸の末裔だという話である。
がしかし、私はこの生存説は明智光秀ではなく、秀吉がいうように光秀は誰かに殺され、身ぐるみ剥がされたんだろうと思う。
「首が拾われた」ってのは明智光秀の首を届ける事による恩賞には興味がない連中に襲われた証拠だろうね。
ではこの生存説は嘘か?実は三男の乙寿丸でもなく、明智光秀の嫡男の十五郎ではないかと思えてならない。
本能寺の変後、6月13日の山崎の合戦で明智光秀が敗れた後、本拠地坂本城は中川清秀と高山右近に攻撃される。
明智光秀の嫡男の十五郎は落城と共に自害した事になってるが、それは嫡男の十五郎以外だったのではないか?
変名の荒深小五郎と名乗った明智光秀の嫡男十五郎は、「十」の横棒をポキっと折って「小五郎」とした。
十の横棒を矢に置き換えると、矢を折る事になる。戦国時代、これは何かを誓う事を意味するのよ。
明智光秀の嫡男十五郎は何かを誓って「荒深小五郎」としたかもしれない。
それは、羽柴秀吉に復讐する事だろうか?
たぶん、明智光秀の血が絶える事のないよう臥薪嘗胆、生き抜く事ではなかったのかと私は思えてならない。