本能寺の変ミステリー信長を襲った明智光秀の殺意とは?

歴史学者は複雑で難しく考察するが、本音は単純なところにある

「なぜ本能寺の変が起こったの?」
「なぜ明智光秀は裏切ったの?」

こういう疑問を持つ方向けの記事になります。(2021/09/3 更新)

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  1. 本能寺の変ミステリー信長を襲った
    明智光秀の殺意とは?
  2. ポルトガルで発見された
    本能寺の変の原因
  3. 明智光秀の本音を知る
    吉田兼見の日記
  4. 明智光秀が隠したかった
    2度目の折檻事件

本能寺の変ミステリー信長を襲った明智光秀の殺意とは?

知将明智光秀はなぜ裏切ったのか?


日本史史上最大のミステリーでいろんな学者が独自の学説を発表してる。
だけど結論から先に言えば、やっぱ怨恨なのよね?

とは言え、最初に言われてた徳川家康接待で腐った魚を出したとかではないんだよね。
問題は明智光秀の殺意がどこからきたか?だと思うのよね。


明智光秀って言えば、知略に富み、陰謀を巡らす油断ならない武将ってイメージで、裏切りの機会を虎視眈々と狙っていたとか思ってるかも知れないけど、実は実直で生真面目、そして公家を相手できる文化人的な教養もあったみたい。

フロイスの日本史の中で、明智光秀の子供たちを見たことが書かれており、西洋の王子の様だったと記述がある。
教養を身につけ、育ちの良さ的なオーラがあったのかもね?


子供は親の鏡っていうでしょ?
そこからも光秀は野蛮な猛獣の様な武将ではなかったと思う。

それに信長を尊崇していた様子が窺い知れる史実が残ってる。


天正10年(1582年)正月、千宗易、山上宗二、津田宗及、今井宗久は安土を訪れて信長への年賀挨拶の後、1月7日に明智光秀の居城の近江坂本へ立ち寄って茶会を開いている。

その床の間には信長の直筆の書が飾られていたとか。
通常、こういった茶会の床の間には、中国、日本の歌人や絵画などが飾られるみたいで、信長の直筆の書を飾るというのは異例みたいね。


それほど忠誠心があったか、そう見せたかったか、完成した安土城なんだけど、天皇行幸の間である、御幸之間が建造されており、家臣団の中で最初に見学を許されたのは明智光秀だった。

そうしたところからも、信長の信頼度の高さからも彼の忠誠心はホンモノだったかもね。
光秀に謀反の動機がないならやはり第三者の陰謀説じゃないの?って思うかも知れないけどそうではない。
実は意外なところから当時の様子が伝わってるのよね。

ポルトガルで発見された本能寺の変の原因

それは宣教師ルイス・フロイスの日本史からでした。

信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にした

(ルイス・フロイスの日本史より)

なぜフロイスが織田家の事情に詳しいのか?それはかなりこの時期中枢に食い込んでた証拠かも。


天正10年(1582年)5月14日から徳川家康が安土にきてた。

3男信孝はかなりイエズス会に入れ込んでいて、天正10年5月17日には家康の歓迎の宴があったので京に滞在していた。
おそらく、そこから話が流れたのではないか?

それは武田征伐からの帰陣の際、信長も驚くほどの接待を受けたお礼だった。
明智光秀はこの接待役をやってたんだけど、17日に解任されてる。

この期間に、この折檻事件が発生したと書かれてるのよね?
何についてかはわからないんだけど、おそらくは長曽我部の四国征伐に関することだと思う。


明智光秀は実は四国方面の長曽我部担当だったのよ、当初。
天正8年あたりから信長と長曽我部は関係が悪化してたの。
原因は信長の四国方面の方針転換だったんだけど、光秀の家臣斎藤利三と長曽我部は義理の兄弟関係で関係が近いのよね?
当初融和政策だったのが征伐することになり、関係が近い明智光秀は方面軍司令官を外されてしまった。


また信長としては息子の信孝を大将に手柄を立てさせ、経験を積ませたかったこともあり、信孝が四国征伐司令官となったの。


外された明智光秀がこのタイミングで何か信長に訴えた可能性はあると思う。
それにこの時期に光秀が折檻を受けたことを暗に示す、別の史料がある。

明智光秀の本音を知る吉田兼見の日記

明智光秀と本能寺の変後に談合した吉田兼見
兼見卿記

それは【兼見卿記】ね。

この日記は吉田神社の神官である、吉田兼見によって日々を綴った日記で兼見は明智光秀とめっちゃ親しかったようなのよ。
彼の日記には奇妙なことに天正十年(1582年)だけ2冊存在する。

1冊は原本、もう1冊は改竄版なのね。
天正十年(1582年)6月13日に書き直ししている。
その日は明智光秀が山崎の合戦に破れて死んだ日。

日記の改竄というこれほど怪しい行動を取り、後世に残した彼は有る意味賞賛もんよ。

彼が改竄せざるを得なかったのは光秀と朝廷、または吉田兼見自身との距離感だ。
光秀が敗者となったため、彼との親しい関係から信長襲撃の”とばっちり”がふりかかるのを恐れたみたい。


改竄された内容の中で気になる箇所が2ヶ所ある。
それは6月7日(本能寺の変勃発から5日後)、吉田兼見は安土へ行き、明智光秀と対面している。


そこで今回の謀反について存分に話したと記載している箇所を削除している。
吉田兼見は光秀から直接謀反の原因となったことを聞いているのよ。
ここからもお互い信頼関係を構築していたことがわかる。

吉田兼見はフロイスが耳にした「足蹴にされた事件」についてもおそらく噂を聞いていたのだろう。

フロイスという宣教師が耳にするくらいなら兼見が知っていても不思議じゃないよね。
もう1ヶ所は5月14日、徳川家康が安土へ御礼訪問に来たので明智光秀が接待役を仰せつかったという内容なんだけど、

「徳川家康が安土へ御礼訪問に来たので明智光秀が接待役を仰せつかった。この間用意に大変だった」と削除ではなく、追記されているのだ。


吉田兼見は自身の日記を改竄するという行為を行った。
これは光秀との関係を問われて信長襲撃の連座で罰せられることを恐れたから。


そのため自身の行動や朝廷の勅使として会った事実などを削除して自身と朝廷に罪が及ばないよう小細工をした。
そこまではわかる話よね?

その小細工の過程で「徳川家康の接待役の準備は大変だった」と追記してしまったのはどういうこと?

5月14日当日に記載した吉田兼見と6月13日に改竄した吉田兼見、二人の間に何が違っていたのか。
それは本能寺襲撃をなぜ明智光秀は決行したか、その理由を知っているか否かの違いなの。
つまり兼見は朝廷や自身は全く関係ありませんよ!
原因の根本は徳川接待役を行った5月中旬の時期に起こった何かが原因なんですよと暗に提示した!ってのは考えすぎだろうか。


日記から謀反について光秀と存分に話した事実は削除しているので詳細には記載できない。
しかし、朝廷に余計な火の粉が降りかからないように原因を匂わしたかったというのが兼見の本音ではないだろうか。

だから「大変だった」と一言追記したのかもしれない。

光秀自身から聞いた決行の理由、それを知る吉田兼見が後世に残したヒントもまたこの5月中旬の時期に事件が起こった事を掲示していた。

でもね。おそらく信長へ折檻を受けた家臣はまぁ、結構いたんじゃない?

それほど家臣団の中では特異な出来事ではなかったはず。
元々気性が荒いのは事実だし。
でも親しい相手だからこそ、言えない事、言いたくない理由ってあるじゃない?

本音を言えば子供っぽいとか思われるとかあったりして。
その辺を探ってると最近、新史料が発見されたのよ。

明智光秀が隠したかった2度目の折檻事件

明智光秀は2度も信長に折檻されていた
怒れる信長

実は同じこの時期に、明智光秀が誰にも言えなかった2度目の折檻事件があったかも知れない。


明智光秀は天正10年5月17日に坂本城に一旦帰城したんだけど、27日までの間の期間に一度安土に戻って信長に謁見した可能性があるのよ。


そこで2度目の折檻事件があったかも知れないの。
ではなぜ光秀がこの時期に安土に戻ったと言えるかというと、そこに新史料が関連してるのよね?
それは長宗我部元親から斉藤利三に宛てた変直前の書状だったの。

東州奉属平均之切、御馬貴所以御帰陣同心候
 天正10年5月21日 (長宗我部元親 書状)

つまり、「甲州征伐から信長が帰ってきたら指示に従う」という意味となる。
なんと長宗我部元親は信長に恭順の意を示していたのだ。
オチてたのよ。
このタイミングで。


この書状は天正10年5月21日に記載されている。
そのため斉藤利三がこれを目にしたのは早くて23日、遅くても24日には目にしていただろう。
斉藤利三はこの書状に歓喜したに違いない。
当然光秀に報告を行ったことは間違いないだろう。


光秀もこれを信長に報告すれば無駄な戦費を費やすこともなく、無駄に殺生することもなく労なくして四国制圧できるので大功間違いなし。


まさにオチ目と思われていたが一発大逆転だったの。

なんだけどなんとこの時期に家臣引き抜き問題で稲葉家から信長に明智光秀を訴える事件があった。
明智光秀にとっては運が悪かったとしか言えないよね。


稲葉一鉄が家臣の那波和泉直治が光秀によって引き抜きにあったと信長に訴えてたの。
これは軍規違反なのよ。
家臣同士の引き抜きは禁止事項だったにもかかわらず、やっちまったのよ。


長曽我部がオチタことで征伐中止の要請とからめて小賢しい言い訳をしたんだろうね、
明智光秀は信長に2度3度と頭を殴られた挙句、カツラをつけてた光秀は、信長にそのカツラを叩き落とされたって稲葉家譜という史料には書かれている。


殴られたくらいなら何もなかったと思う。
だけどカツラを叩き落とされるってのはこれ以上の屈辱はないよね?

いやいや、ちょっと待て!
というかこの時代にカツラなんてあったの?

(外野のヤジ)

って思うかも知れないけど、若ハゲでマゲが結えないケースってあったと思う。
そのための附髪ってのが当時あったのよ。

そういうのをつけるってことはやっぱコンプレックスだったと思うし、体裁を気にする生真面目な性格から、こういう類の屈辱は殺意に変わると思う。

信長は明智光秀をキンカ頭と呼んでいた。
それは黄金の様な素晴らしい知略を持った知将というところから来てるのかと思ってたら、そうではなく、ハゲ頭をからかったあだ名なっだのよね?


本能寺の変は計画的に実行したものではなく、明智光秀が後先考えず急襲したことは明らかなんだよね?


そうしたことからも並みの屈辱ではなかったし、カツラが吹っ飛んで知略も吹っ飛ぶくらいの殺意が湧き起こったんだろうね?


天正10年(1582年)5月27日、堀秀政からこの引き抜き問題の結論を示す書状が残っている。
本能寺の変は6月2日だったので本当に直前に起こった折檻事件だったことがわかる。

本能寺の変前後の史料を確認すると信長と同等か、それ以上公家や天皇から暗殺命令があったとは考え難いし、足利義昭黒幕説もあるがはっきり言って役不足感は否めない。

誰かの命令ではなく、単純な、烈火の如く燃え上がった殺意が原因だったとしか思えない。
斎藤利三と四国征伐はきっかけではあったが原因は信長の光秀への恥辱による殺意だったと私は確信している。

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