小説『よんどころない事情で・・・』

 この日、京の朝を告げたのは、いつもの鶏の鬨(とき)ではなく、落武者狩りの餌食となった名も知れぬ武士の断末魔だった。


 ここ数十年の間、足利将軍家の後継問題に託けて、京周辺の有力な戦国大名達は覇権を争い、京洛中は戦乱に巻き込まれて焼け野原となることが度々起っていた。町は荒廃し、人々の心は荒んでいき、色の無い風が吹きさらしとなっていた。町衆はもはや何が起こっても諦めの境地に陥っていた。まさに京は権力に魅せられた醜い蜘蛛の垂涎(すいえん)の的となっていた。だがその反面、そんな蜘蛛が獲物を絡めとる蜘蛛の巣のような裏の顔も持ち合わせていた。


 京とは周囲を山に囲まれた盆地であり、丹波・山科・鳥羽・鞍馬の四つの要害を抑えられると四面楚歌となる危険な町でもあった。しかし、天正十年六月二日の京は、織田信長の広大な支配領域に囲まれ、しかも周辺地域は東に坂本城、西に丹波亀山城があり、いずれも元幕臣だった明智光秀の支配領域となっていた。
いつしか戦火で荒廃した街は過去のものとなりつつあり、町には人が戻り笑顔で行き交う人々で溢れ、天下静謐(せいひつ)の時が流れていた。


 昔から京は平城京、平安京と行政の中心地であったことからも町並みが碁盤の目のように綺麗に整理されていた。丸石をのせた板張り屋根の軒並みが、高さや幅が歪にも関わらず、器用にもその区画に埋め込まれていた。それはまるでこの世の縮図のようでもあった。


 京洛中の町衆は、行燈の節約のため日の入りと共に就寝し、日の出と共に起床して御天道様と共に暮らしていた。その歪な軒並みからゆらめく炊煙に朝日がさす様は、いつもの朝の町風景のように思われた。
その日、本能寺方面で騒動が勃発したところで、町衆はまた何か起こったのかくらいで関心すら示さなかった。まして、その炊煙に混じっていつもと異なる黒煙が上がっていたとしても、当然、明智光秀の軍兵すらも怪しむ者などいなかった。京洛中に住む長兵衛もまた同じだった。寝起きに長槍の刃を突きつけられるまでは……。

 長兵衛より早く起床する女房の伊予は日の出と共に土間に立ち、朝支度するのだった。土間には水桶や使い古された釜戸があり、その横に薪が積み上げられていた。伊予は、広間の囲炉裏のそばに何やら食材をのせた竹の薄片で編んだ笊(ざる)を乱雑に並べていた。そしてその囲炉裏を挟んだ反対側には、長兵衛がまだ大いびきで寝入っていた。伊予は長兵衛の朝支度の用意に忙しくしており、外の騒がしさには気がついてはいても気に留める余裕もない様だった。ただ、時々耳に入っている悲鳴が気になったのか、支度の合間に格子戸からチラチラ外に視線を投げ捨てた。


 その格子戸は土間に立ち込める炊煙を、朝飯の香りを乗せて外へ逃す煙道となっていた。その格子戸から朝日が差し、数本の光芒が長兵衛の物寂びた家を照らしていた。その光芒は、冬枯れした芒(すすき)のような薄い黄褐色の土壁が年を重ねた様や、埃が舞い散る様を浮き上がらせていた。
そして突如、一筋縄ではなかなか開かない我がままな引き戸が、ガタガタと不気味な音を立てはじめた。風や嵐で引き戸が笑っているわけではなく、明らかに何度も誰かが力まかせに引き戸を開けようと試みていたのだった。


長兵衛は、もそっと頭をあげて土間にいる伊予を見たが、別段騒音を立てているようには見えず、次に寝ぼけ眼で引き戸の方へ視線を向けた。
「ふうむ……、あぁ……眠いのう。一体誰じゃ? こんな朝っぱらから」
長兵衛は二度寝を邪魔されて、やや不機嫌な口調で独り言のように呟いた。ボウッとしながらも、違和感を覚える。いつもの近所連中なら「長兵衛よぉ」と声がけして、後は面倒なので引き戸が開くまで待っているはずである。


さすがの伊予も異様に外が騒々しく、砂埃を舞い上げながらバタバタバタと駆ける草履の音が、家のすぐ側まで近付いていることや、引き戸の音に違和感を覚えたようだ。
「何かしら」
と伊予は独り言を呟きながら渋い顔を浮かべる。朝支度で忙しく手を動かしてはいるが、奇怪に思った様子で、段々と手が止まって引き戸に関心を寄せていた。
この年季の入った引き戸は溝の至る所に引っかかり、素直に開かない。一瞬引き戸への力が弱まり、静まったかと思った次の瞬間、バァンと引き戸が蹴り破られて内側へ倒れてきた。


「うわぁっ! な、なんだぁ?」


その直後、長兵衛の背中に戦慄が走る。なんとヌ〜ッと長槍が顔を出したのだ。
夢と現実の境界線を彷徨っていた長兵衛は、突如長槍を突きつけられ、仰天して飛び起きた。伊予も思わず、


「あんた! ……きゃあぁ!」


と悲鳴をあげ恐怖で凍りつく。そして、あんぐり口を両手で覆い、後ずさりながらその長槍の動向に釘付けになった。
格子戸からの光芒がその長槍の矛先を照らしたとき、長兵衛の血が凍りついた。刃にこびりついた血と肉片が、すでにこの槍の餌食になっていた凄絶を物語っていたからである。まさにその槍の穂には怨念がぬらぬらとまとわりつき、ドス黒い血が怪しく輝いていた。


驚愕と恐怖で身の毛が逆立つ感覚に襲われた長兵衛は、その長槍の新たな餌食にならないよう行方を注視する。その長槍の奥から血飛沫にまみれた甲冑に身を包む雑兵がゆっくりと姿を晒す。さらに兜の奥から殺気みなぎる眼球がギョロリと周囲を警戒しつつも長兵衛を睨みつけた。
長兵衛は予想外の侵入者に声も出ず、


————やられるのか?


脳裏にふと自身でも信じられない言葉がサッと横切る。長兵衛は固唾を呑む。
「フゥ〜」


その雑兵は余分な殺気を吐き出すかのように息を吐く。槍を構えたまま、ジリジリと足半(戦闘用の草履)を滑らせて、ゆっくりとその雑兵は侵入してきた。槍を握る雑兵の手は土と返り血で黒ずみ、緊張の灼熱の汗が腕毛の狭間を濡らしていた。家内の重力が変動したかのような重い空気がみなぎる。


長兵衛の額から汗が噴き出す。そして、向けられた刃が突き刺さったかのように心の臓がキュウッと収縮して息苦しさを感じていた。長兵衛は土間に目をやった。番匠(大工職人)である長兵衛は土間に仕事道具を置いていた。一番近くにある木の表面を削る槍鉋(やりがんな)に目をやる。なぜなら、細い棒の先に槍のような鋭い刃がついていたからだ。


————あれなら戦える!
と長兵衛は考えたが、ここで道具を取ろうと動いてはかえって危険に身を晒すと思い、武器を諦めてゆっくりと壁際に後退りするのだった。武器もなく、戦えず、半ば、破れかぶれになりながら、


「な、なんじゃ。ここには何もないぞ。ただの貧乏人じゃ」


その雑兵は長兵衛の言葉を全く無視して、警戒する視線を周囲に散らしながら、容赦ない殺気と長槍の刃を向けていた。さほど広くない十畳ほどの家内を見渡して長兵衛と伊予以外はいないことがわかると、その雑兵はやっと警戒を解き、槍を引っ込めた。


「こっちはいないのう。向こうじゃ」


雑兵は長兵衛や伊予に背を向けると、外で待つ別動隊と言葉を交わしていた。
その声が家内まで漏れ聞こえてきた。雑兵が引き上げていくと、戦慄で凍りついていた長兵衛の血が、急激に体温を全身に運びはじめた。そして押し寄せる安堵感に胸をなでおろすのだった。
長兵衛が伊予に目を向けると、右手で着物の上前を抑えながら同様に安堵したとみえて、腰を抜かし土間に座り込んでいた。


「なんだったんじゃ、今のは————」


怖気づき、やや声を震わせる長兵衛は、開けっ放しにされた引き戸の開口部から、外を注視していた。また別の雑兵が侵入してこないかと警戒していたのだ。


「あんた、そこら中から悲鳴があがっとる。何かあったのかしらね————」


伊予は長兵衛の言葉を聞いてか聞かずか、そうつぶやいていた。
長兵衛は恐怖の大波が引いて茫然自失となっていた。腰を抜かしている伊予と共に、引き戸の開口部から、どこからともなく聞こえてくる奇怪な絶叫や、不気味な悲鳴の声を拾い聞きしていた。そして抜刀した雑兵が足を引きずる落武者を追うゾッとする地獄の断片を覗き見ていた。その開口部から見えなくなった後の耳心地の悪い断末魔は、その後、何が起こったかを、容易に想像させるのだった。長兵衛は思わず伊予と顔を見合わせ、その場から動けずにいた。

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