なぜ斎藤利三は生き恥を晒し、打首となったのか?
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- 斎藤利三が自害ではなく、
打首となった怪 - 羽柴秀吉に絶賛された斎藤利三
- 斎藤利三と信長の四国政策の大転換
- 四国征伐開始前の斎藤利三の
大どんでん返し
斎藤利三が自害ではなく、打首となった怪
単純にあり得ないのよね。
信長が早々に切腹した理由は織田家随一のしたたかな戦国大名であった明智光秀が取り囲んだってこともあるけど、それ以上に明智光秀に首を渡して京の三条河原で晒し首にされる事だけは避けたかったから。それ以上の屈辱はないのよ。
天正10年6月16日、山崎の合戦にて敗北した斎藤利三は山崎から逃れてからは近江志賀郡の堅田に潜伏していた。
この地は光秀の重臣猪飼秀貞の領地であったが、秀貞が利三を騙して捕縛し、秀吉に突き出した。
6月18日に市中引き回しの上、六条河原で打首となった。
明智光秀はある屈辱的な理由から本能寺を急襲する計画を藤田行政、溝尾茂朝、明智秀満、斎藤利三の4家老に打ち明けている。
斎藤利三以外の3家老はいずれも山崎の合戦で敗北した後、逃走中に自害している。
なぜ、斎藤利三は自害しなかったのか?
自害する前に捕らえられてしまったから?
敗北して逃走中にいくらでも自害する時間はあったはずなのよね。
往生際の悪い武将のようにも思えないのよね。
羽柴秀吉に絶賛された斎藤利三
天正10年6月2日、本能寺の変で織田信長が死んで、4ヶ月後の10月15日に京の大徳寺にて壮大な葬儀が羽柴秀吉によって執り行われた。
この当日に羽柴秀吉監修の『惟任退治記』が出版されている。
これは本能寺の変について書かれた書物としては事件発生から一番直近に書かれたもの。
そこに斎藤利三のことが書かれてるんだけど、大絶賛に近い内容なのよね。
惜しいかな。利三は普段、武芸ばかりを嗜んでいたわけではなく、仁義礼智信の5つの徳目を備えて友人たちと親しく交わり、内では花鳥風月を愛し、詩歌を学ぶような人物だった。なぜ今彼がこのような憂き目にあわなければならないのか。はなはだ残念だ。
『惟任退治記』より
生き恥を晒して打首されるような人物像ではなかったっぽいのよ。
宮崎駿監督の「風立ちぬ」のキャッチフレーズが「生きろ!」だったかと思うんだけど戦国時代はそうではない。
明智光秀の居城坂本城で留守居の明智秀満は山崎の合戦で光秀が死んだことを知って一族郎党全て刺し殺して天守閣に火をかけて自害した。
その様子を『惟任退治記』は「見事な最後」と褒めちぎっている。
実は上で紹介した斎藤利三の記述の後に気になることが書かれていた。
ある人が利三に言うには、異国の公治長は縄をかけられはしたものの、罪を被った訳ではなかった。本朝の曽我五郎時宗は縄にかかることによって恥辱を晴らした。あなたもまた彼らと同じなのではないかと。
『惟任退治記』より
どういうことかというと、「異国の公治長」とは春秋戦国時代の孔子の弟子公冶 長のこと。
伝説によれば、公冶長は鳥と会話が出来るという特殊能力が備わっており、その力によって死体の場所を知ることができたが、かえって犯人と疑われて獄中入りとなった。
つまりは主人である明智光秀の謀反に引きづられただけで斎藤利三には何の罪もないのではないか?
また、曽我五郎時宗というのは鎌倉時代の武士で兄十郎祐成とともに父の仇を打った事で縄にかかるが敵討ちは名誉であり、恥辱ではなかったし、斎藤利三もそういう類ではないかと言うのだ。
実はこれこそ本能寺の変の原因の一端ではないかと思うのよ
斎藤利三と信長の四国政策の大転換
1570年以降、織田家では方面軍司令官なるものが任命されていた。
上杉家には柴田勝家、武田家、北条家には滝川一益、徳川家康、毛利家には羽柴秀吉、本願寺には佐久間信盛といった具合に。
明智光秀は四国方面軍として天正三年(1575年)十月から交渉担当していた。
ターゲットは長宗我部元親だった。
元親は土佐統一を果たして近畿圏の大勢力である信長によしみを通じていてこのあたりから信長と元親には親交があった。
四国方面軍としての明智の攻略は他の方面軍とは異なっており、明智家と長宗我部氏を親交によって織田家に引き込もうとした。
そこで目をつけたのが斎藤利三だったの。
光秀の家臣斉藤利三の兄で、石谷家の養子となっていた石谷頼辰という人物がいた。
彼の義理妹が、長宗我部元親の正室となっていたの。
斉藤利三、石谷頼辰と長宗我部元親は義理の兄弟関係だった。
元々斎藤利三は稲葉一鉄の家臣だったんだけど、この姻戚関係を利用するために強引に引き抜きして家臣団に加えていたの。織田家では配下の大名同士の合意のない引き抜き行為は軍規違反だったんだけどね。
これがのちに本能寺の変の原因としてつながっていくんだけどね。
他の方面軍司令官達は合戦を前提となってるので姻戚関係のような、そういった対応はとっていなかった。
なので戦略としては異例だったっぽい。
信長と元親の関係は当初良好で、信長は四国に関しては長宗我部元親の「切り取り次第」を約束としていた。
しかし天正8年10月にちょっとした事件が発生した。
石山本願寺合戦で敗北した教如派の郎党が阿波勝瑞城に立て籠ったのだ。
阿波勝瑞城は元々三好家の所領であったがこのとき讃岐に退去していた。
そこで長宗我部元親はこの勝瑞城を占拠し、阿波を支配下に置いてしまったの。
その頃近畿圏では信長と敵対していた三好康長が信長に降っていた。
その康長は信長に本領の阿波を取り戻したいと懇願してきたため信長は天正8年10月、長宗我部元親に対して土佐、阿波南半分のみ所領と認める旨通告した。
これを取り次いだのはもちろん交渉役の明智光秀である。
当然長宗我部元親は最初の約束と異なることを激怒して元々信長には何も恩を感じていない旨を伝え、信長に敵対した。
光秀も家臣の斉藤利三の兄である石谷頼辰を使者として元親に送り再三説得したが無駄だったっぽい。
この辺りから信長は方針転換を機に、光秀を四国から遠ざけてしまう。
もちろん長宗我部と関係を強すぎたからなんだけど。
1580年に本願寺攻略に失敗した宿老佐久間信盛が追放されたことで明智光秀は「明日は我が身」と覚悟したに違いないね。
信長は自分の意に従わない元親に対して三好康長に力添えしてやり、天正9年2月に康長は阿波奪還に成功した。
その頃信長近辺も大変忙しく元親と敵対したとはいえほぼ信長自身は放置していたみたい。
光秀も信長の命令で京都御馬揃えの準備、開催等を行っていた。
年が明けて天正10年2月に武田家の家臣木曽義昌が織田家に寝返ったことで甲州征伐が開始。
信長は三好康長に四国方面を委任していたが甲州征伐が片付いた天正10年4月あたりから四国征伐への準備を開始した。
これが本能寺の変、2ヶ月前なのよね。
斎藤利三としては信長の政策の大転換に唖然とせざるを得なかったに違いないよね。
四国征伐開始前の斎藤利三の大どんでん返し
天正10年5月7日、信長の3男神戸信孝に四国征伐軍の指揮権が与えられた。
重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めることになる。
また、征伐後、阿波国は三好康長、讃岐国を信孝に、伊予国・土佐国に関しては後程決めると領地の配置まで決定されていたの。
まだ征伐前ってのに。
おまけに神戸信孝は三好康長の養子となり、三好家を継承して四国を納めることになっていたという。
なぜそれほどまでに三好康長が重宝されたかというと、織田信長に降伏した際に名器「三日月」を献上していたから。
信長はこの茶器を手に入れたことで大喜びだったという。
逆にいうと、長宗我部家はこの茶器ひとつで滅亡が決定したと言っても過言ではないのよ
斎藤利三としてはどうしてもなんとかしたいと思うのは当然だと思う。
四国征伐開始はなんと天正10年6月2日に予定されていた。なんと本能寺の変当日なのよね、これが!!
ここで気になる史料がある。『元親記』なんだけど、斎藤利三に対する記述がある。
斎藤内蔵助(利三)は四国の儀を気遣いに存ずるによつてなり 明智殿謀反のこといよいよ急がれ
『元親記』より
長宗我部が本能寺の変を画策してた?実は本能寺の変の真相とはこれなのでは?
と思えるが、そうではない。
これはあくまでも元親が本能寺の変を聞いて利三を心配してこのように気を使わせたかもしれないということであって真相を推測しているにすぎない。
「気を使わせた」とは、実はあまり知られていない真実がここに隠されていたの。
爆弾はこれからよ
実は新史料が発見されたのよ
東州奉属平均之切、御馬貴所以御帰陣同心候
天正十年五月二十一日
長宗我部元親 書状
これ、「甲州征伐から信長が帰ってきたら指示に従う」という意味となる。
天正8年10月に信長は元親に土佐・阿波南半国のみ認める朱印状を送りつけ、長宗我部と関係悪化していたがなんと長宗我部元親は信長に恭順の意を示していたのだ。
本能寺の変が起こる前、四国征伐開始直前に長宗我部は既に陥落してたの。
この書状は天正十年五月二十一日に記載されている。
明智光秀は5月15日に中国征伐の援軍を命じられ、京から居城坂本城に帰城している。
その準備をしていた時期、5月26日までにはこの書状を受け取っていただろう。
斎藤利三は明智光秀を説得したに違いない。労せずして四国が落ちたのだから。
もう戦をする必要はない。
四国征伐は中止にできると。
そう思ったに違いないが現実は全く違っていた。
天正10年5月15日〜5月27日までの間に明智光秀は信長に2度謁見していると私はみている。
これこそ、明智光秀が本能寺の変を起こした殺意が芽生えた大事件だった
詳細は別記事にまとめてるからそちらをどうぞ!!!
四国征伐を中止させ、おまけに長宗我部を陥落させた主君明智光秀は大功に違いない。
斎藤利三はそう思ったに違いない。
がしかし、居城坂本城に戻った明智光秀は変貌していた。
何かが視界を遮り、唖然茫然とした光秀の口から稲葉一鉄の訴えで斎藤利三が危うく自害させられるところだったという全く想像もしていなかった状況だった。
四国征伐中止など全く次元の違う話で信長の命令に歯向かうこととなり、逆に折檻を受ける屈辱を受けた。
斎藤利三が自害せず、生き恥を晒したのはこういった背景から、自身の信念に従って行動したことに誇りを持っていたからだと、だからこそ自害して逃亡するようなマネはしないで正々堂々と処刑されたんじゃないか?と思いたいけどね。