ツタンカーメンの呪い?ハワードカーターのフシギな話

ファラオの墓の発掘に関係した者には
呪いがかかり死ぬ・・・

「ツタンカーメンの呪いって本当のところどうなの?」

そんな疑問をハワードカーターの発掘秘話と共に
紹介する記事です。(2020/09/08 更新)

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  1. ツタンカーメンの呪いで何度も死んだハワード・カーター
  2. 偶然ではなく、必然だったツタンカーメンの墓発見
  3. 犠牲者発生!ツタンカーメンの呪いダァ
  4. ツタンカーメンの呪いの真相
  5. 実は呪われていたのはツタンカーメン自身だった

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ツタンカーメンの呪いで何度も死んだ
ハワード・カーター

そもそもいつから「王家の墓の呪い」とか「ミイラの呪い」とか言われていたのだろうか?
ミイラは元々ヨーロッパでは「ミイラ開きショー」とか、薬だとか言われて盗掘されまくってた時期があった。
この「ツタンカーメンの呪い」も胡散臭い。
しかしながら、これはマジっぽいの。
なぜかというと、このハワード・カーターのツタンカーメンの墓の発掘調査に資金援助していたカーナボン卿が、ツタンカーメンの墓発見のたった5ヶ月後に、
カイロのコンティネンタルサヴォイホテルで急死したのを発見されている。
この不可解な急死について当時マスコミはこぞって取り上げた

「卿が亡くなった同時刻、卿の飼い犬が大きな遠吠えをあげて死んだ。卿が遺体で発見されたホテルの部屋は、以来誰も使用していない」

(当時の新聞記事)

こういったことからもマスコミに注目されることとなり、ツタンカーメンの墓を発見したハワード・カーターの名声は一夜にして不朽のものとなった。
そんなことからもこのハワード・カーターと同姓同名の人が交通事故で死ぬことがあったりするとその度に「ツタンカーメンの呪い」だと騒ぎ立て、
誤報だったと訂正記事を載せることになったのだ。

ハワード・カーターの世紀の発見は偶然の幸運だったような記事が当時は見かけたそうだが、実際は全く違っていたのだ

偶然ではなく、必然だったツタンカーメンの墓発見

1891年、17歳のとき、ハワード・カーターは遺跡発掘現場の助手としてエジプトに渡っている。
1899年から1903年までの4年間、エジプトの考古局首席監督官(遺跡監督官)を務め、1916年からカーナボン卿の資金援助の下、王家の谷の発掘調査に乗り出した。

「誰もが“思いがけず発見”という表現を使いたがるが、私はそのことにいつも軽い苛立ちを覚える」

(イェール大学のエジプト学者ジョン・ダーネル氏)

ハワード・カーターが1922年にツタンカーメンの墓を発見するまで、1891年から遺跡発掘現場にいたことを考えると、30年という時間が経過している。
これほど古代エジプトの発掘に人生を捧げたのに「偶然の幸運」はひどいよね?
ハワード・カーターは王家の谷の発掘エリアを区分けし、漏れなく発掘していったから、ツタンカーメンにたどり着いたのよね。
カーターは古代エジプトの埋葬地を築いた人々のことを実に詳しく研究していた。
土地が高くなっている場所、道のついている場所を知っていて、雨嵐に襲われた一帯がどのように変化したかも知っていたっぽいのよね。

犠牲者発生!ツタンカーメンの呪いダァ

1922年、スポンサーのカーナボン卿に資金援助の打ち切りを宣言される。
そんなハワード・カーターはラムセス6世の墓の隣に、墓を造る際に建てられた、作業員小屋の跡とされる遺構が残っていた。
王墓の上に作業小屋を建てるなどありえないとして、これまで見逃されてきた場所であった。
しかし、第18王朝の王とされるツタンカーメンと第20王朝のラムセス6世の治世は、少なくとも200年ほど離れている。
王墓があったこと自体、忘れられている可能性がある。
その推測通り、ツタンカーメンの墓はその下に埋まっていたのだ。

”その直後からカーナボン卿をはじめ、関係者22名が死亡した”

その頃からマスコミが、「ファラオの墓の発掘に関係した者には呪いがかかり死ぬ」と書き立てたのだ。

ツタンカーメンの呪いの真相

実は、”ツタンカーメンの呪い”と騒ぎ出したのはこの時からで、それ以前はそんな伝承、呪いなど存在しなかった。
このツタンカーメンの墓発見のニュースは20世紀の大発見と言われているが、当時、マスコミは「タイムズ」のみの独占契約だったの。
スポンサーのカーナボン卿が勝手に独占契約を結んだみたいで、世紀の発見を前に独占されたそのほかのマスコミは当然激怒。
そこでありもしないツタンカーメンの呪いを勝手に捏造して報道しまくったというのが真相なのだ。
そのため、関係者22名っていうのも怪しいもんで、関係者の友人や知り合い、同姓同名の無関係の人まで呪われていた。

「いやいや最初のカーナボン卿は発見後5ヶ月で急死でしょ?」

(外野のヤジ)

実は死の約1ヵ月前、カーナボン卿はエジプト南部、アスワンで数日間の静養を取っている。
その際に蚊に刺され、頬が腫れ上がっていたそうで、後日のひげ剃りの時にうっかり傷つけてしまった。
傷跡は処置したものの、その直後から発熱と回復を繰り返したようで、体力的に消耗していたというのが死の真相になる。
なので「ツタンカーメンの呪い」とは厳密にいうと・・・

「ツタンカーメン発見の世紀のスクープをタイムズに独占されたマスコミたちの呪い」

だったというわけ。
ツタンカーメンの墓を発見したハワード・カーターは、発見から17年後、ようやくツタンカーメンの呪いに襲われ、ガンでなくなった。
ハワード・カーターの不幸を言えば、発掘にその身を投じたが学歴はなかった。
そのこともあって世紀の大発見をしたにもかかわらず、カーター自身はそれほど発見当時は評価されず、あまり裕福ではなかったようだ。
でも私が思うにそんなことよりも、ツタンカーメンの研究成果を全て発表することなく、死に至ったことの方が残念だったろうね。

実は呪われていたのはツタンカーメン自身だった

このハワード・カーターの大発見のおかげで現在もツタンカーメンの研究が勧められており、だんだんとどういった家系図だったのか、どんな人生だったのかわかってきている。ツタンカーメンの墓を初めてみたハワード・カーターの感想は・・・

ツタンカーメンの呪いとハワード・カーター


「最初は何も見えなかった。しかし目が慣れていくにつれ、室内の細部がゆっくりと浮かび上がってきた。数々の奇妙な動物、彫像、黄金。どこもかしこも黄金だった」

(ハワード・カーター)

誰もが贅沢で、絢爛豪華で優雅な生活をおくったファラオを思い浮かべるだろう。
しかし実際はどうもとんでもない人生だったようで!それは別の記事で紹介するね!

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