釜茹での刑で散った石川五右衛門のフシギで鬼狂な最後

ただの盗人のはずなのに業火で煮えたぎる油で煮殺された怪

「石川五右衛門ってルパンの?え?実在の人物なの?」
「石川五右衛門の釜茹での刑で死んだのは本当なの?」

そんな疑問を持つ方に向けた記事になります。(2020/02/21 更新)

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  1. 釜茹での刑で散った石川五右衛門の鬼狂でフシギな最後
  2. 華やかな安土桃山文化の仄暗い実態
  3. 石川五右衛門はなぜ釜茹での刑となったのか?
  4. 眼球が破裂するほどの苦悶と絶叫の中で

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釜茹での刑で散った石川五右衛門の鬼狂でフシギな最後

「融仙院良岳寿感禅定門」って読めないんだけど、江戸時代から続く歌舞伎や浄瑠璃など多くの日本の伝統芸能の作品に登場する石川五右衛門の戒名なんだって?
そもそも石川五右衛門は江戸時代のこういった演目の題材として大人気だったのよね?
なので架空の人物なんじゃないか?
とか実在なのかどうかさえ、疑われていたのよ。
でもね、意外なところから石川五右衛門が実在の人物だと断定されたのよ。
なんとそれはスペインに史料で確認されたの。
安土桃山時代から江戸時代まで20年近く日本に滞在したベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンという貿易商なんだけど、彼が記した『日本王国記』に以下のような記述が見られる。

「かつて京を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捉えられ、京の三条河原で生きたまま油で煮られた」

いやいや待て待て、どこにも石川五右衛門なんて書かれてないじゃん

外野のヤジ

絶景かな、絶景かな!の石川五右衛門

実は続きがあって、やはり日本に滞在していたイエズス会の宣教師ペドロ・モレホンがこの記述に注釈を入れていたの。そこには・・・

「この事件は1594年の夏である。油で煮られたのはIxicava goyemonとその家族9人ないしは10人であった。彼らは武士のようななりをしていて10人から20人の者が磔にされた」

バッチリ記述されてる。
それに実は石川五右衛門の釜茹での刑は夏か?それとも冬か?
という2つの説があるんだよね。
実は京には12月12日と書かれた札を逆さに壁にすると魔除けというか、泥棒よけ?になるという慣わしがあるらしい。
12月12日というのが石川五右衛門の処刑の日らしいのよ。
それで昔は泥棒は屋根裏から入ってくるので逆さになった状態でこの札を見ると12月12日にあの大泥棒石川五右衛門さえ、煮殺されたんだ!お前もそうなるということで泥棒するのをやめたとか。
まぁ、それくらいでやめるくらいならそもそもやるな!って感じだけどね。
これ12月12日は実は石川五右衛門の誕生日って説もあるのよね?
だから、宣教師の注釈で夏だったことはほぼ確実かもね。
でね、戒名についてフシギな話があるのよ。
浄土宗の単立寺院で天正年間に織田信長・信忠父子の菩提を弔うため貞安上人が創建した大雲院があってね。
そこに2メートルくらいの墓石があって、「融仙院良岳寿感禅定門」と刻まれているんだけど、なぜか墓石の角が削り取られているんだって。
そこにフシギなゲン担ぎがあるんだけど、その前にこの戒名はまた奇妙なことになってる。
住職に言わせれば、「~院(院号)は戒名としては最高位で、ただの盗賊につける戒名ではない」らしいのよね。

「いやいや戒名なんて金で買えるじゃん」

外野のヤジ

実は昔々は、お金を出せば出しただけ良いものが付くというものではなく、その人の年齢・性別・信仰心の篤さ・お寺や社会に対する貢献度によって決まるものらしいのよね?
だからこれだけでもケチな盗人ではなかったという証明になるのよ。
それにおかしいと思わない?
もしただの盗人としたら、家族全員、親族関係者全て釜茹でか、磔で死刑ってのは重すぎるでしょ?
殺しでもないのに。

華やかな安土桃山文化の仄暗い実態

重税に苦しむ民衆

歴史の授業とかでは、1582年の本能寺の変以降、天下人に登りつけた羽柴秀吉によって全国統一されていく、戦国の世は幕を閉じようとしていた。
そして、全国各地であった戦は次第になくなっていき、日本文化が開花した華やかな時代であったとか教えられたでしょ?
当時の支配階級である武士ではそういった優雅な時代だったかもしれない。
だけど、納税する農民たちにとっては実態としてより苦しくなった時代でもあったっぽいね。
戦国時代に善政を敷いた北条氏の領内では年貢は収穫の5分の2だったが、秀吉政権では3分の2だったとする説もあるくらい。
ただ、苦しくなった理由は太閤検地が原因だったみたい。
戦国時代では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは村という団体として領主に年貢を納めることがほとんどだったみたいね。
実態はそんなシンプルではなく、土地に権利を持つ者が幾重にも入りくんだ、既得権益に群がった毒蜘蛛の、まさにからまった蜘蛛の巣状態だった。
当然、農民出身の秀吉もそれは承知だろう。
だからこそ、太閤検地を実施することで土地台帳に農民の名を記し、その土地の年貢はその土地を耕す農民自身に受け持たせることとした。
だけど、毒蜘蛛どもが飯のタネを易々と手放すはずはない。
中間搾取分は別にされており、お上に提出する名目上の帳簿と、村内で実態に即したモノホンの帳簿と別管理されていた。
太閤検地によってその領主の石高は正確に測られ、農民たちは重い納税義務がある。
そして毒蜘蛛どもにもやはり搾取され続けていたのだ。
農民は希望を削がれ、飢えに苦しむ餓鬼と化していった。
そこで奇妙な義賊が京を荒らしまわる事件が起こったというわけ

石川五右衛門はなぜ釜茹での刑となったのか?

民衆の英雄となった石川五右衛門

出生地は伊賀国・遠江国、河内国・丹後国などの諸説がありよくわかっていない。
伊賀流忍者の百地三太夫の弟子とする説もあるんだけど、その三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したとの伝承もある。
また、手下や仲間を集めて権力者のみを相手に悪事を働いていたことがあり、当時嫌われていた豊臣政権ってこともあり、石川五右衛門は民衆に人気があったみたいね。
石川五右衛門が釜茹でとなった罪状は、公家の山科言経の「言経卿記」によれば、「強盗、追剥、悪逆非道を働いた罪」らしい。
江戸時代の歌舞伎の演目では秀吉暗殺を企む義賊、石川五右衛門としてダークヒーローとして人気があった。でもこうやって罪状を見てみるとどうも暗殺しようとしたわけではなさそうね?
もし暗殺しようとしたならば、罪状をそのように書いて煮殺さないと見せしめにならないからね。
秀吉はなぜか徹底的に処理している。
それは当時、秀吉自身が不人気で、石川五右衛門が民衆に大人気だったことが影響しているかも。
農民出身の秀吉は農民に希望の星でヒーローの石川五右衛門を恐れ、第二、第三の五右衛門が現れる前に潰したかったというところだろう。
天下人は奪った権力にしがみつき、自分がしたように奪いにくるヒーローの出現に疑心暗鬼となるのは中国史を知ってる人には容易に想像つくかもね?
幸い、石川五右衛門の釜茹での刑の影響は、「五右衛門風呂」が出現することくらいで済んだようね。
適温なら快適の「五右衛門風呂」はなんと釜茹での刑から誕生したという、なんとも皮肉な話ではないか。

これは快適そうな五右衛門風呂

実際はそんな気持ちの良いものではもちろんなかった。
この釜茹での刑なんだけど、煮えたぎる油の中に放り込まれるわけではなく、油につかった状態で業火で徐々に殺すという文字通り、煮殺す方法だったみたい。実際、石川五右衛門の母親は熱湯で煮殺されたという。
熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている。
ただ、石川五右衛門の釜茹での刑はそれはそれは壮絶なものだった・・・

眼球が破裂するほどの苦悶と絶叫の中で

義賊石川五右衛門の壮絶な最後

石川五右衛門の釜茹での様子を伝える話はいくつかある。
実は石川五右衛門には五郎市という息子がいて、2人一緒に殺されたという話がある。
それも石川五右衛門は死に絶えるまで息子を持ち上げていたとか、あまりの苦しさに息子を沈めて踏み台にしたというなんともお粗末なエピソードまである。
しかし、そんな息子を踏み台にするような奴にご立派な戒名が与えられるものだろうか。
後世に残る大泥棒、石川五右衛門の最後とは想像を絶する、壮絶な”死に華”だったに違いない。

石川五右衛門と息子、五郎市は五右衛門風呂のような鉄の釜いっぱいの油を見つめていた。
これから経験したこともない、想像も絶する苦痛と灼熱地獄に身を焼かれる恐怖と格闘していた。
五郎市はただ泣き叫ぶばかり。
石川五右衛門はなんと、怯える五郎市を頭上に抱えて、不気味なほど冷えた油に身を投じた。
子供を頭上に抱える石川五右衛門と無情の油が入った鉄釜は業火で灼熱地獄化していく。
グツグツ・・・グツグツ・・・

「まだこれでは死ねない」

石川五右衛門が最後にできることは息子を即死させることだけだったろう。
ボッコボッコと煮えたぎる油で皮膚がズル剥けになりながら、獰猛な野獣化した石川五右衛門は絶叫する。

「まだダ・・・
まだ死ねない・・ギャァ」

愛する我が子の為必死に耐える石川五右衛門

五朗市を抱き上げた腕から抜けようとする力を無理やりみなぎり渡らせるように、叫声があたりの空気を切り裂き、民衆はたじろき、思わずゴクリと生つばを飲む以外できずにいた。
睨みつけるギラリとした五右衛門の眼球にまだ死神は取り憑いていない。
ただこの地獄の拷問に耐えるなかで、皮膚下の血管が鮮明になり、ちぎれるほど張り詰め、流れる血は沸騰しているかのようだった。
額から流れる汗すらも蒸発するほどの煮えたぎる油にドス黒い遠吠えのような断末魔と五朗市の悲鳴が三条河原を地獄絵図へと変えていた。
皮が溶解していく哀れな石川五右衛門は醜怪な魔物化していた。
油が業火で煮えたぎる状態を自身の肌で図り、石川五右衛門はこの世のものとは思えない血のまじる絶叫とともに最愛の息子五朗市を一気にザボンッと煮えたぎる油に沈めた。
もう涙さえも蒸発してしまうほどの鉄釜にゆらめく湯気の幻影となった石川五右衛門はその壮絶な最後を遂げた・・・

もしかしたら、そんな最後だったかもしれないね。
ちなみにこの石川五右衛門を煮殺した鉄釜はつい最近、第二次世界大戦末期まで現存してたんだけど、弾薬に変えられてしまったみたい。
このような様子を目の当たりにした観衆はあまりの熱さに息子さえも踏み台にするしかなかったと勘違いしたのかもしれない。
そうではなく、きっと苦しまないようにしたかっただけだと私は信じたいね。
ところで石川五右衛門の墓がある大雲院の住職はなぜ石川五右衛門の墓石の角が削れているのかを教えてくれた。

「手癖が悪い子を持つ母親が「五右衛門の墓石のかけらをお守りの中に入れると、悪い癖が治る」と耳にして、時々削りにくる」

のだとか。

石川五右衛門

「そんなもんでいいんなら持ってけ!泥棒」

とかいって、石川五右衛門は豪快に笑ってるような気がするね。

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