南海沖大地震が騒がれているが、大地震は勘弁してほしい既に体験済みだし
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- 27年前の恐ろしい大地震、阪神淡路大震災
- 悪鬼の罵声のような轟音で始まった大地震
- 近衛兵へ襲撃された私
- 大地震の前夜に起こった不思議な出来事
- ご主人様を助けた「猫の恩返し」
- 猛り狂う振撃の恐怖
- ガス臭が蔓延する中でも奇妙な軌跡
- 悪夢な激震で崩壊した街
- 大地震に襲われた”荷物の密林”に住む祖父
- 未曾有の大地震の中で輝く軌跡
27年前の恐ろしい大地震、阪神淡路大震災
電車の車窓から流れて見える風景が形状を失い、移りゆく色彩のみを脳が感じとって視線の端に写しているとき、人は風景なんて見ていない。
背中に大きな荷物を背負って仄暗い棘の道を必死に進んでいたことで時間にズレが生じ、周囲の景色が早送りされたような気がする。
でもちょっと一休みして風景を車窓から見ると、どんなに速く電車が流れていてもゆっくりとスローモーションのように風景が広がっていく。
あれから27年も月日が流れているなんて・・・
平凡な私の人生で唯一、命の危険を感じた出来事、阪神淡路大震災の体験談を少しだけお話ししようかと。
それはまるで何人もの獰猛な巨人が野蛮な業火を囲って、悪霊に捧げる怪しい舞を踊っている側にある小人の家にいたような体験だった。
でもちょっとした不思議なことがあって、私は今、こんな記事を書いているんだよね。
悪鬼の罵声のような轟音で始まった大地震
ドーン!地獄のドラがひびき鳴った。
早朝05:46頃、突如爆音が地面の奥深くより鳴り響いた。
まるで空振のようなものが容赦無く私の身体を突き抜けた。
睡眠中の無の境地から徐々に現世へと感覚が目覚める過程を吹き飛ばされた私は、夢と現実の境界線を彷徨っていた。
ゆっくりと、まるで誰かに揺り起こされているのかと思った。
次の瞬間、私自身、状況が理解出来ない程の凄まじい強烈な揺れに襲われた。
これが直下型マグネチュード6.7、震度7の史上最悪の大地震だった。
一瞬、頭によぎったのはアメリカ軍か、北朝鮮の爆弾に襲われ、爆撃されたかと勘違いしたほどだ。
そんなパニック状態な私をさらなる恐怖が襲いかかった。
冷たい不気味な影に私は飲み込まれようとしていたのだ・・・
近衛兵へ襲撃された私
私のベッドには、並行して右横にスチール製の大型の本棚、中型の木製の本棚を配置していた。
それら本棚には小学校から高校までの買っただけの問題集や、手垢がついていない辞書などがあった。
それは「いつでもご主人様に使って頂けるように」と行儀よく、バッキンガム宮殿の近衛兵のように整列していた。
がしかし、それらは直立不動のまま、長年時が流れていた。
目が覚めるような赤い上着に熊の毛皮の帽子を被った近衛兵のようだった問題集や辞書は埃を被っていた。
また、手垢や使用痕がないせいか、皮肉にも綺麗に色褪せていた。
全く使用する兆しもないまま虚しく時間だけが過ぎていった。
それをこの近衛兵達は恨みに思ったのか、大地震の急襲に託けてなんと私を襲撃してきた。
ドドドドド・・・ガガガガ・・・
私は地球に揺さぶられ、身体ごと左右に突き動かされて状況が理解出来ない私の脳は真っ白となっていた。
そんな時、ベッドの横に整列していた本棚がゆっくりと不気味な音を立てながら私の上に覆いかぶさってきた。
それらを眼にした時
「あ、死ぬ」
と一瞬、自覚するよりも先に言葉が脳内を疾走して悲鳴と共に、身体中の血液から体温が急激に減殺していくのを感じていた。
大地震の前夜に起こった不思議な出来事
2台の本棚と本と埃に生き埋めとなった私だが、コブ程度で済んだのは奇跡だった。
実はその日の夜、不思議な事が起こっていたのだ。
大型の本棚は足元から腰あたり、中型の本棚は腰から頭部あたりに配置されていた。
いつも中型の本棚の上に、昔のスピーカー付きの大型ラジカセを置いていたのだ。
ただ、夜寝るときになっていつもはなんとも思わないのに、その日に限って寝付けなかった。
なぜかその馬鹿でかいラジカセが眼に入ってなんともいえない奇妙な気味悪さを感じていたのだ。
そのため、私はそのラジカセを本棚の上から降ろしてベッドの足下へ移動させていたのだ。
もしそのまま寝ていたら、大怪我か、打ちどころが悪かったら死んでいたかもしれない。
台所の食器は全てフロアに散乱し、陶器やガラスの破片が散乱している状態だった。
私の部屋の中もまるで巨人に家ごとシェイクされたかのようにごちゃごちゃ状態で足の踏み場など無くなっていた。
ただ、我が家が背伸びして購入していた身分の高い観賞用の陶器類はそのほかの食器類とは違って強力な磁石がついた装飾を施した嫌味な扉のおかげて暴力的に砕け散る悲劇からは逃れていた。
ご主人様を助けた「猫の恩返し」
私には姉がいるが、姉は部屋で猫を飼っていた。
その猫が地震直前に暴れ出して姉は目が覚めたらしい。
いつもと様子がおかしい!
なんとなく悟った姉は猫を抱いて布団の中でうずくまってたら、大地震に襲われたとか。
地震後、太い木製の巨大なカセットテープを収める棚が姉の枕に落下していた。
そのめり込んだ光景を目にした時、ゾッと背筋に戦慄が走るのを感じた。
姉は猫に命を救われたのだ。
その猫は私が小学校2年生の時、好きだった女の子に「拾ってあげて」と頼まれて飼い始めた捨て猫だった。
私は捨て猫の不幸な境遇に同情したわけではなく、その女の子にモテたかったという浅ましい心の暗部に毒されていただけだった。
その猫は「可愛い女の子」のおかげで人生が一変していた。
ろくな餌も食えないまま、腐食した死体へ変貌していた人生から救われていた。
それから十数年後阪神淡路大震災でご主人様の姉に大地震の危機を知らせて命を救っていたのだ。
そんな姉は今2児の母親にもなっている。
これは「猫の恩返し」かもしれないね。
猛り狂う振撃の恐怖
そんな姉と私は、母に部屋から救出されてテーブルの下にしばらく隠れていた。
小学生のころの防災訓練でテーブルの下に身を隠すように言われたことを思い出す。
でも、人生でテーブルに命を預けたのは後にも先にもこの時だけだ。
それにこの時ほどじわじわと死が迫り来る恐怖を感じたことはない。
次の瞬間に何に襲われるのか?
家が崩れ落ちるのか?
床が抜けるのか?
殺人的な巨石に襲われるのか?
何もわからない暗闇の中でまさに彷徨っていた。
ガス臭が蔓延する中でも奇妙な軌跡
父は卸業のため、この時点で既に仕入れのため出勤していた。
市場の高く積み上げられた荷物の中で被災したらしい。
幸い怪我することなく、無事帰還。
「お前ら、ガス臭いから火はつけるなよ」
とクリント・イーストウッドのようにタバコをふかせながら叫ぶ父に
「ボケるのは構わないが、俺を巻き添いにはするな!」
と突っ込みたくなった。
硫黄のようなガス臭はガス漏れを気づかせるためにわざとわかりやす良いように強めにコーティングされているのだろう。
ガス爆発は特に起こらなかったので助かった。
悪夢な激震で崩壊した街
このような大震災の中でライフラインの復旧が不可欠。
電気・ガス・水道のうち、一番最初に復旧したのは電気だった。
実は私の地域では地震直後から電気だけは大丈夫だった。
一体世界はどうなってしまったのか?
テレビをつけた瞬間、異様な地獄絵図が眼に飛び込んできた。
阪神高速道路が横倒しになっていたあのニュース映像だ。
それまで気丈に振る舞っていた母の目から大粒の涙が流れていた。
「お父さん、絶対に死んでるわ、わぁ〜!もう絶対に死んでるわ」
あの言葉はいまだに頭から離れない。
実は私の祖父はものが捨てられず、部屋は座る場所以外は全て荷物という荷物の密林の中で生活していたのだった。
私と父はそんな母に代わって車で母の田舎の長田へ急いだ。
大地震に襲われた”荷物の密林”に住む祖父
大火災がその後に発生した、あの長田の街だった。
地震直後はまだ誰も車で移動しておらず、信号はないがスムースに移動が可能だった。
ただ地下鉄が通っている場所は道が陥没していて危険だった。
いつどこで突然道が崩壊しても全く不思議ではない状態だった。
いつも毎年、年末にお祭りがあった長田神社の前にはどでかい石碑が横倒れになっていた。
また、車の駐車場には崩壊した建物から助け出された人が倒れていたりしていた。
まるで第二次世界大戦の空襲にあった街で、非情な炎の中で逃げ惑う光景のようだった。
そんなシーンが目の前で展開されていた私には唖然茫然と眺める以外なかった。
というかこの時、他人に気をつかえる人など誰もいなかっただろう。
私の祖父は無事だった。
実は祖父は荷物が多過ぎてドラえもんのように押し入れをベッド代わりにしていた。
4本の柱に支えられたその場所は唯一の安全地帯でもあったらしい。
祖父は、私たちが駆けつけたのが嬉しかったのが満面の笑みで
「生きとうでぇ!」
といつものかすれた声で話してくれたのを覚えている。
そんな祖父はそれから十数年生きながらえ、天寿を全うすることができた。
未曾有の大地震の中で輝く軌跡
風変わりしない街並みの中で、変わらない日常の中に身を置いていた。
がその時、建物は崩れ落ち、2階から4階の低い階層が潰れた建物が多かった。
街には人がおらず、荷物と瓦礫、倒壊した電信柱、切れた電線などが垂れ下がって道に散乱していた。
それは奇妙なジャングルの様相を呈していた。
物色している人も中にはいたが誰も気に留める暇などなかった。
でも私はそんな大震災の中でも多くの素敵なことを目撃した。
停電し、信号は一切なかったが車同士で譲り合い、徐行することでみんな交通ルールを守ろうとしていたり、コンビニから生活必需品を購入したいが誰もいなかったのでカウンターにお金を置いていったり。
外国ではこういった場合、略奪が横行するらしいが日本人は冷静に対応し、被災した時こそ、人であろうとしたところに誇りに思う。
一番印象深い光景だったのは、近くの教会。
そのキリスト教の教会は完全に崩壊していたが、なぜかマリア像だけは仄暗い瓦礫の海の中で彷徨う人の道標となる光になるべく、まるで何事もなかったかのように祈りを捧げる姿を見せていた。
突然、未曾有の不幸に襲われたストーリーを背負う人々が行き交っていた。
それでも生きていかなければならない私たちは水を求めてバケツを手に弱い足取りで右往左往していたが、そのなんとも形容しようがない風景に心とめていた。
信仰心は残念ながらないが、あの奇跡的で不思議な光景だけは今も忘れることが出来ないでいる。