坂本龍馬暗殺の謎!龍馬は英雄ではなく、殺人犯だった?

立場が変われた人物評も激変!坂本龍馬はなぜ暗殺されてしまったのか?

MENU・・・

  1. 坂本龍馬に襲いかかった醜悪な殺意
  2. 紀伊藩家老の妾と関係を持った坂本龍馬
  3. 陸奥宗光は坂本龍馬暗殺犯を知っていた?
  4. 見廻組の今井信郎が龍馬を斬った男なのか?
  5. 坂本龍馬は暗殺ではなかった?
  6. 坂本龍馬が無血革命にこだわった理由
  7. 龍馬暗殺の実行犯の見廻組を動かした黒幕とは?
  8. 見廻組渡辺篤の暴露

坂本龍馬に襲いかかった醜悪な殺意


明治維新の一大傑物と言わしめた偉人坂本龍馬はなぜ暗殺されてしまったのか?

いや、そもそも坂本龍馬は幕末の時代、本当に英雄だったのか?
まずはこの記事を読み進める前にこちらの記事を読んで頂けるとよくわかるかと思うのでこちらをどうぞ!

坂本龍馬の謎!英雄像は本物なのか?

1867年11月15日、この日は坂本龍馬にとって誕生日だったと言われている。

龍馬は近江屋の2階に潜伏していた。
夜半過ぎ、ちょうど中岡慎太郎と密談していたところだった。
「十津川郷士の者です」と名乗る者が坂本龍馬へ面会を求めるきたとか。

坂本龍馬に襲い掛かる怪しい影

その後の惨劇には幾多の説があり、何が真実なのか謎となっている。

明治時代、宮内大臣だった田中光顕は「維新風雲回顧録」の中で坂本龍馬の最後を語っている。


1867年11月15日、土佐藩邸にいた田中は近江屋から血相変えて駆け込んできた峯吉から衝撃の報告を受けたという。

「坂本さんと中岡さんがやられました」


現場に駆けつけた田中光顕が目にした光景は仄暗い和室に広がる血みどろの惨劇だった。

坂本龍馬の下僕藤吉が2階登口の間に横様に倒れて血だまりができていた。
奥の間には坂本龍馬と中岡慎太郎が斬撃によって血まみれとなり、暗殺犯の、強烈な殺意の痕跡とともに倒れていた。

近江屋の見取り図


坂本龍馬は眉間に2太刀深く裂かれていて、脳が露出するほどのものでほぼ即死。

中岡慎太郎は重傷ではあったが、一命はなんとか取り留めたとか。

「突然、二人の男が2階へ駆け上がってきて、斬りかかったため、思わぬ不覚をとった。坂本は、もう頭をやられたからいかんといった、僕も所詮、助かるまい」

と嘆いていたという。
坂本龍馬が斬撃を受けた刀は受けたところが鞘越しに切られていて、刀身は三寸ほど傷ついていて、刀ごと斬られていたことからも、よほどの勢いを持って斬り込まれていたことがわかる。

坂本龍馬暗殺はいったい誰がやったのか?

実はもうこれはほぼ確定している。

坂本龍馬が襲われた近江屋の居間

京都守護職にあった会津藩の見廻組ね。
見廻組とは1864年頃にできた、京の治安維持部隊で、今で言う警察のような役割を担っていたようね。


しかし、事件当初はそうは見ていなかったようで、坂本龍馬を殺された海援隊は幕府高官であった永井尚志にも疑いをかけて紆余曲折しながら、紀州藩の三浦休太郎が黒幕だと疑惑と殺意の視線を投げていたらしい。

誰なんだ?ってなるかと思うんだけど、当時、龍馬にはわかりやすい敵を自ら作っていた。

海援隊のいろは丸事件ね。
1867年5月26日、海援隊のいろは船が紀州藩の軍艦と衝突してしまい、いろは丸は積荷もろとも沈んでしまった事件。


龍馬はこの時、日本初の万国公法に基づいた裁判にて7万両もの賠償金の支払いに成功させた。
ちなみに1988年に沈没したいろは丸は発見されたんだけど、龍馬が裁判で主張したような銃火器類は発見されておらず、巨額の賠償金は思いっきりハッタリだったみたいね?


暗殺事件当初、海援隊はこの事件で恨みを買ったに違いないと、紀州藩を坂本龍馬暗殺の黒幕と思い込んでいたようね。

また、坂本龍馬の妻おりょうが面白い後日談を残している。

紀伊藩家老の妾と関係を持った坂本龍馬


ある時、坂本龍馬は京都四条の沢屋という旅館に宿泊したそうな。
その女主お熊の娘、お国という美人がいて紀伊の家老伊達家の主人の妾となっていたが龍馬が宿泊していた時に何らかの事情で帰っていたとか。

その晩、龍馬とお国は一晩の契りを交わしたらしい。

色恋のもつれで恨みを買った?龍馬!英雄、色を好む

その恋の恨みが龍馬暗殺につながったとおりょうはいう。

なんとこの紀伊の伊達家主人というのが陸奥宗光の兄に当たる人物で、三浦休太郎の主筋に当たる人物なんだとか。
ちなみにこの陸奥宗光は坂本龍馬率いる海援隊員でのちの外務大臣になる人物。


なので「いろは丸遭難事件」の一件は表の理由で内実は恋の恨みというのが妻おりょうの見解。

中々生々しい人間臭い理由があって政治的な理由よりも真実味がありそうな気はする。


ただ、坂本龍馬暗殺事件後の陸奥宗光の行動に奇怪なものがある。

陸奥宗光は坂本龍馬暗殺犯を知っていた?

頭でっかちで嫌われていた陸奥宗光


なんとおりょうは事件後陸奥宗光が船を浮かべて飲めや歌えやの大騒ぎを催していたと憤慨している。


その中に新撰組のメンバもいたため、寺田屋のお登勢が龍馬さんを殺害した犯人と関係があるのか!と悔しがっていたと後日談を残している。


おそらく兄の伊達の関係もあってその筋で紀伊藩が関係していたかどうか探りを入れていた可能性が高いと思われる。

なのでこの時点で陸奥宗光は「見廻組」が真犯人だと掴んでいたのではないか。
それが証拠に陸奥宗光は事件後、海援隊のメンバーが新撰組の邸へ討ち入りするのに参加させられるのを嫌がっていたとか。


おりょうはこのことを「臆病たれ」と陰口を叩いているがそうではなかったかもしれない。

後日談で重要情報を漏らす妻おりょう

ただ、陸奥宗光以外は下手人は新撰組と決めてかかっていたみたい。
事件現場に犯人の鞘が落ちていたようで、元新撰組隊員の伊藤甲子太郎が新撰組の原田左之助のものだと証言したからね。

それにこの伊藤甲子太郎、坂本龍馬暗殺の前日に「新撰組が狙ってて危ないから土佐藩邸に匿われるように」と近江屋へきてわざわざ警告していたらしいのよね。


そんな伊藤は当時、新選組内部の佐幕派と対立しており、うまくいっていませんでした。
伊藤はどうも龍馬を殺されて報復したい感まんさいの「ぶちギレ海援隊」を意図的に新選組にしむけたようね?
伊藤甲子太郎は鞘の証言をした翌日に新選組の報復で暗殺されている。本当は鞘の持ち主は見廻組の世良敏朗のものだそうな。


また新撰組の人斬り鍬次郎と恐れられた大石鍬次郎も関係者だと疑っていたようで、鳥羽・伏見の戦いで捕まった大石は強烈な拷問を受けて、一時自分がやったと自白強要されている。


のちにそうではなく、見廻組だと彼が証言したところから実行犯が判明した。
その頃、疑惑の人、見廻組の今井信郎は戊辰戦争の函館戦争まで戦い、新政府側に拘束された。
そこでその後の売名行為と罵られる疑惑の証言をぶちまけることになる。

見廻組の今井信郎が龍馬を斬った男なのか?

見廻組 今井信郎


1870年2月にゲロった大石の証言から見廻組の今井信郎が龍馬をやったと酒席で聞いたと話していたことから、今井も取り調べ対象となったみたい。

この今井信朗は証言記録と後年新聞に語った武勇伝と2種類あり、どちらが本当なのかわからない。

今井信郎の口伝によれば、取り次いだ下僕の藤吉が2階へ上がって行ったのを後からついていき、抜刀して殺害。

そのまま刀を鞘に納め、何食わぬ顔で襖をあけ、中岡と坂本に対面した。

今井信郎はどちらが坂本がわからなかったため、「坂本先生、お久しぶりです」と声をかけた。
すると一人の男がアゴを撫でながら、「はて?どなたでしたかなぁ」と声をかけたのでそちらが坂本と踏んで抜刀。

額を真横に払ったとか。

ずいぶんと呑気な暗殺だと思えてならない。

常に大太刀を帯刀してた今井には狭い居間での抜刀は無理

なぜなら武士なら誰かわからない相手と対面するなら刀を側に引き寄せて対面するだろう。
なので「対面した」はあり得ない。


それに中岡慎太郎本人の供述では「突然、ふたりの男が駆け上がってきて」となっている。


実はこの酔狂な武勇伝とは別の裁判での口書がある。


これには実行犯は「桂、渡辺、高橋の3名が2階へ急襲し、私は台所で見張り役していた」とゲロっている。
おそらく、こっちが本物だろう。

この見廻組が龍馬も中岡も面識がなかったことから、暗殺犯達は当時どっちをやったのかわかっていなかったんじゃないか?と思えるんだよね。

ところで、当時取り調べ責任者は元土佐藩出身者でした。
今井信郎は首領佐々木只三郎の命令だったと証言。
また、坂本龍馬を暗殺した理由を語っている。

坂本龍馬は暗殺ではなかった?


今井信郎の証言によれば、1866年の寺田屋騒動で龍馬がピストルで幕僚2名を殺害し、逃亡した事による犯行が理由だったとか。

その際、逃してしまったため、今回は仕留めてよしとの命令だったらしい。
当時江戸幕府が権力の中枢であった世の中では、坂本龍馬は世の中を転覆しようとする活動家で、2名殺害した凶悪犯罪者だったというのが暗殺の理由だった。

おそらく実行犯が知っていたのは政治的な思想犯というより「殺人犯」でしょうね?

問題はさらに上の命令系統。
色々と黒幕説があるのはもちろん知っている。

龍馬が暗殺された1ヶ月前、大政奉還が成立。
薩長は武力による倒幕という形にこだわっており、朝廷から勅令をもらう裏工作に走っていた。


一方、坂本龍馬は戦争にしたくない理由があった。

坂本龍馬の暗殺シーン

坂本龍馬が無血革命にこだわった理由


実はあまり知られていないが当時、横浜港には英仏の駐留軍がいた。

異国勢である駐留軍は混乱に応じてその国を乗っ取るというのが常套手段だった。
中国の清朝では広大な領土がヨーロッパ各国の餌食となっていたのはこれが原因だった。

そんな諸外国の事情はこの時期、幕府の知識人の間では当然把握していた。
外国通の勝海舟の門弟だった坂本龍馬ももちろん知っていたし、実は徳川慶喜も龍馬と同じ考えだったと言われてる。

そもそも、そういった外夷を打ち払おうというのがこの幕末維新の根幹でもあったのよね。
一橋慶喜は1866年8月、14代将軍家茂が亡くなったことで徳川宗家を継ぎ、徳川慶喜となるがなんと当初将軍職を拒んでいた。

慶喜は既に幕府体制は維持できないことを悟っていたっぽい。

しかし、朝廷より将軍宣下があり、15代将軍となる。
そうなると一転して慶喜は、フランスから軍事顧問を招いて軍制改革から着手し、思い切って近代化へと舵を切っていたのよね。

徳川慶喜は江戸幕府にフランスの行政組織の要素を取り入れるとともに諸藩や朝廷の権力を削減して、日本を幕府を頂点とする中央集権国家に体制そのものを変革することを意図する改革に着手していた。


だけど、薩長の倒幕準備が整いつつあり、流れを変えることはできませんでした。


元々大政奉還論者だった慶喜は、土佐の大政奉還案に乗ったというわけ。

そこで腰を折られた薩長は裏で動いた坂本龍馬を恨んでいたかもしれないとか言われている。

ただ、この薩長黒幕説もおかしい。
なぜなら土佐が独断で大政奉還案を出したわけではなく、もちろん事前に薩長へ手回ししていたからだ。

それに晩年坂本龍馬は自分が狙われていることは察知しており、土佐藩邸に入ろうとしていた。
しかし、脱藩者ということもありそうは行かなかった。

代わりに薩摩から薩摩藩邸に入るよう誘われていたが龍馬が土佐藩のメンツも考えて断っていたとか。

おりょうの後日談では西郷が後藤象二郎に怒鳴りつけて悔し泣きしていたとか。
現在、京都霊山にある坂本龍馬・中岡慎太郎の墓石は薩摩藩で刻んだものであり、それを海援隊が譲り受けて建てたとおりょうはいう。

薩摩藩が製作した墓石

薩長が黒幕ではないのではれば、一体誰が見廻組を組織していたのか?

龍馬暗殺の実行犯の見廻組を動かした黒幕とは?


坂本龍馬暗殺の実行犯は佐々木只三郎をはじめとした見廻組だったが、当時見廻組の責任者は?

となると小笠原 長遠という人でした。
だけど、この人物、龍馬暗殺があった1867年11月、病で倒れており、翌月の12月に退官している。

本人も「病気で監督不行届ですいません」とか言って無関係だと証言。


ではこの佐々木只三郎は一体誰の命令で動いていたのか。
そこはミステリーという濃い霧につつまれている。

1923年、佐々木只三郎の兄で会津藩公用人であった手代木勝任の養嗣子が『手代木直右衛門伝』を出版。
この書では、手代木勝任が没する数日前に、「坂本を殺したるは実弟只三郎なり」と述べ、龍馬が薩長同盟と「土佐の藩論を覆して倒幕に一致せしめたるをもって、深く幕府の嫌忌を買ひたり」として、「某諸侯の命」によって只三郎が3人で蛸薬師にて龍馬を殺害したとしている。

無情の刃に倒れた坂本龍馬と中岡慎太郎

この気になる「某諸侯」とは京都所司代の松平容保、または実弟の桑名藩主松平定敬のどちらかではないかという説があるが、土佐は討幕派では当時まだなかったことからも藩主である容保や、松平定敬が一介の浪士に報復の暗殺を仕掛けるとは考えにくいというか、彼らが坂本龍馬を認識していたこと自体怪しい。


ただ、これは推測にはなるが、大政奉還が成ったとはいえ、混乱した時代の中、見廻組のような末端組織にまでは時代の移り変わりはまだ見えておらず、「三百人の浪士と共に京へ潜伏中」と噂された凶悪な殺人犯坂本龍馬を幕府の取り締まり業務の観点から追っていた皮肉な結果だろうと思われる。


時代を動かした坂本龍馬が新しい時代を生きることがなかったというのは悲劇としか思えない。

そんな坂本龍馬暗殺事件、一体何が起こったのか。


ある死に際の老人の告白から明らかになった真実をとは?

見廻組渡辺篤の暴露

見廻組渡辺篤


1915年9月1日〜2日に「大阪朝日」に衝撃の見出しが踊る。

「坂本龍馬をやったのは実は私だ」

と大々的に報道されている。

この私とは渡辺篤だ。

彼の証言によるとこうだ。


「2階から降りてきた下僕に十津川浪士と名乗って名刺を差し出した。下僕が取次に上がる。その後より、そっとついて上がった。階段を登り切るや否や、電光石火、得意の早業で、目指す龍馬を斬りつけた。その時、龍馬は床の間を背に轟然と座っていたが、怪しき者と、後ろの床の刀を取りに立ちあがろうとするところを、肩先深く一太刀斬りつけた。龍馬は横に倒れた隙を後ろより続いて上がってきた佐々木只三郎が仕留めた。それと同時に左右にいた侍(中岡慎太郎)を打ち果たした。唯一人、十二、三歳の少年が机の下に頭を突っ込んでいたのはかわいそうなので見逃した」

この証言で気になるのは「十二、三歳の少年」の存在だ。

これは間違いなく、峯吉だろう。

しかし「菊谷峯吉遺談」ではそうではなく、坂本龍馬が夜食に軍鶏を所望したので峯吉が買いに出かけ、その隙に坂本龍馬と中岡慎太郎は襲われたとなっている。

実際は軍鶏を買って帰ってきており、峯吉も襲われていたが恐怖のあまり机に隠れたことを恥じて事実を隠蔽したのではないか?


また、それよりも衝撃なのは3太刀食らった坂本龍馬だが、最後絶命に至った致命傷を与えたのが別人物だったというのも真実味がある。


最初に渡辺篤が居間になだれ込む。
仰天した坂本龍馬に一太刀、眉間を横になぎる。

血みどろになる坂本龍馬


坂本龍馬が刀を取らんと背中を見せたところをさらに一太刀。

そのまま中岡慎太郎への斬撃に移行し、坂本龍馬に3太刀目を食らわしたのは後ろから駆け上がって勢いよく斬りつけた佐々木唯三郎だったということだ。


中岡慎太郎が重傷ながらもある程度刀で防御でき、一命を取り留めたことからも坂本龍馬よりも太刀を取る時間が一瞬長くあったことが推測できる。

坂本龍馬の身長は175〜180cmあったとか。
当時男性の平均身長が150cmだったことからも小学生のバスケットボールの試合に参加するNBAプレイヤーと同じくらいの身長差があったろう。


そこを小太刀の早業で急襲したことからも見廻組にしても緊張と殺気、凶悪犯坂本龍馬への恐怖心も混在する奇怪な形相に変貌し、鬼気迫る渾身の急襲撃だったに違いない。

明治の文明開花と薩長閥の政治批判から坂本龍馬は英雄扱いとされいる今日だが、江戸時代末期、誰もが寝静まった底冷えする夜に、時代を切り開いた無血の革命家坂本龍馬は「幕府転覆を狙う殺人者」として、旧体制の遺物である見廻組に暗殺されてしまったというのが真実に近いところではないだろうか。

殺人犯として処理された坂本龍馬
ホーム » 歴史 » 近代史 » 坂本龍馬暗殺の謎!龍馬は英雄ではなく、殺人犯だった?