坂本龍馬の謎!英雄像は本物なのか?

明治時代に坂本龍馬を持ち上げたのには裏があった!?

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  1. 英雄”坂本龍馬”に祭り上げられた裏事情とは?
  2. 幕末の大物だった坂本龍馬
  3. 江戸幕府に狙われた坂本龍馬
  4. 重要情報を握る土佐の素浪人坂本龍馬

英雄”坂本龍馬”に祭り上げられた裏事情とは?

坂本龍馬は本当に英雄なのか?


坂本龍馬が大好きな方にとって、この近代日本の方向性を示した歴史は英雄に値すると思う人はたくさんいると思う。

ただ、それは史実だったのか?


神戸海軍操練所時代から坂本龍馬を知る人物で、カミソリ外交と異名を持つ陸奥宗光の言葉を借りれば

海援隊に所属し、坂本龍馬に近かった陸奥宗光


「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を遊説、感得するの能に富める、同時の人、能く彼の右に出るものあらざりき。薩長二藩の間を連合せしめ土佐を以て之に加わり、三角同盟を作らんとしたるは坂本の策略にして、彼は維新史中の魯粛よりも更に多くの事を為さんとしたるもの也。
坂本に至りては、一方において薩長土の間にわだかまりたる恩怨を融解せしめて、幕府に対抗する一大勢力を起こさんとすると同時に直ちに幕府の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸候を率いて朝廷に朝し、事実において太政大臣たらしめ、名において諸侯を平等の臣族たらしめ、もって無血の革命を遂げんと企てぬ。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ。」


とあまり人を褒めない陸奥宗光が褒めちぎったとこれまた有名な言葉。

それだけではなく、日露戦争の時は、日本海海戦の直前に、龍馬が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという逸話である。

皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣の田中光顕が、龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったと言われる。

これほどまでに坂本龍馬がもちあげられたのは時代のせいでもあるようなの。

詳しく見てみよう。
ちなみに宮内大臣の田中光顕は坂本龍馬と同じ土佐出身なのね。

幕末の大物だった坂本龍馬

坂本龍馬は死後ではなく、当時から大物だった!?


実は坂本龍馬が暗殺された1867年当時、確かにただの一介の素浪人が暗殺された騒ぎではなかったことは確かなの。


『新選組始末記』の作者として有名な西村兼文が編集し、明治9年(1876年)1月に出版された志士番付『近世報国赤心士鑑』 では、龍馬は東西七段の表で二段目の三番目の位置である。

志士の重要度ランキング


この番付の最上段は藩主や公家・家老クラスで、家士クラスは二段目から。

東の一番は長州・来島又兵衛、二番目も長州の久坂玄瑞、高杉晋作は龍馬の次の東の四番目である。
しかも龍馬は土佐では最上位にランクされているので、幕末当初、無名どころか十分大物の扱いだったと推測できる。

ただ、すぐに鳥羽伏見の戦いに突入した時期もあって渦巻く時代の流れのなかで忘れられてしまったということかも知れない。



坂本龍馬に再びスポットライトが当たったのは、1883年に高知の土陽新聞に連載開始された坂本龍馬の自伝的小説「汗血千里の駒」が原因でした。

坂本龍馬を題材にした最初の小説

なぜ坂本龍馬が連載されたかというと、この土陽新聞というのが自由民権派の政治色の濃い論調の新聞で、政府から発行停止処分を度々受けていたのが、1883年、社説等で自由民権思想に基づく論説を発表しないことを条件に、一般大衆向けに刷新し、その第一弾として連載されたのがこの坂本龍馬の自伝でした。


自由民権思想というのは、1874年頃から始まった運動で、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租(土地にかかる税金)の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げた運動で、当時薩摩と長州が新政府を牛耳っていたのを批判する意味もあった。

薩長閥の明治政府に批判が集中



なので当時を知る明治維新の偉人たちはこぞって龍馬評を発表し、坂本龍馬を持ち上げたのにも実は坂本龍馬自体が凄かったというよりは、薩長を批判する意味のほうが強かった可能性もある。

果たして幕末に散った坂本龍馬は本当に英雄だったのか?
それともただのパシリだったのか?

江戸幕府に狙われた坂本龍馬

手配書が出回っていた坂本龍馬は罪人扱い?



坂本龍馬の歴史の中で幕府に狙われた最初の大事件は、1866年1月に発生した寺田屋騒動でしょうか。

寺田屋に宿泊していた坂本龍馬と護衛としてついて来た長州藩の三吉慎蔵が幕府方に囲まれ、手傷を負う事件ね?

スッポンポンで階段を駆け上がって龍馬に危機を知らせた、おりょうの証言では、

おりょうが入浴していたとされるお風呂
おりょうが裸で駆け上がった階段


「寺田屋に泊まりきたのは、三吉慎蔵、新宮次郎、池内蔵太、そして坂本龍馬の4人で、長崎からくっついてきた長吉という男は途中で解雇したそうな。この長吉というのが江戸幕府のスパイで、海援隊に近づき、様子を探っていた。」

と言っている。
江戸幕府のスパイの長吉ってのがなんとなく胡散臭い。


この時、坂本龍馬は既に幕府から目をつけられていたということになる。

ちなみに三吉慎蔵の日記では、この頃、京では一橋慶喜が京伏見に来るということで身辺警備が厳しく、新撰組がかなり厄介だったと書き残している。

またちょっと気になることが書いており、当初坂本、池、新宮、三吉の4名で薩摩藩邸に出向き、薩長同盟の話し合いをする予定だったが、薩摩藩邸から長州の三吉はダメだと言われ、寺田屋に待機するしかなかったみたい。

今も当時のままの寺田屋

つまり、三吉は坂本龍馬の警護などでは全くなかったようで長州側の交渉人?のような立ち位置だった可能性が高い。

またこの寺田屋騒動で坂本龍馬がピストルで幕府方を2名ほど殺害するんだけど、このピストル、1866年2月6日に桂宛の手紙で長州の高杉晋作にもらったと書いてるが、三吉慎蔵は幕府方に襲われた際、自分は槍を使い、ピストルは龍馬に渡したと書いている。

これを合わせると高杉の伝言を受け取った三吉が龍馬にピストルを渡したか?
それとももらったのは三吉だが、龍馬に渡したのどちらかで高杉晋作から直接龍馬にプレゼントされたものではどうやらなさそう。


ところで、スパイの長吉だけど、龍馬が幕府に狙われたとするならば、亀山社中が原因かもしれない。

亀山社中は、神戸海軍操練所が廃止になった際、薩摩藩が塾生らの航海術の専門知識を重視しており、庇護を引き受けたところからはじまる。

そして、坂本龍馬の提案で、小松帯刀、大久保利通がそれに出資したということになったようね。


その龍馬の提案というのが交易の仲介業や海運業による自立が主な目的としたカンパニー案で、ちなみに月給制が敷かれていた。

坂本龍馬の秘密結社「亀山社中」のメンバーとされる写真

しかし、それだけではなく、裏では海軍としての面も発揮し、薩長同盟を成立させることこそ最大の目的だったの。

「社中」というのは当時、カンパニーの英語の和訳と考えられていたんだけど、実はそうではない。


社中というのは当時、仲間やグループという意味で使われてた。
つまり、亀山社中の実態とは完全な秘密結社と言える。


この発想は長崎に滞在していた武器商人トーマス・グラバーから得たものではないか?

幕末維新の原動力となるグラバー

彼こそ、秘密結社フリーメイソンのメンバーだったから。
思想を共有する仲間の存在は大きな力を産むと教えられたかも知れない。

グラバー庭園にあるフリーメイソンのシンボルマーク


その亀山社中と取引のあった土佐商会ではこの社中を、「才谷社中」と呼んでいたみたい。


「才谷」とは坂本龍馬の変名。
ちなみにこの土佐商会がのちの三菱の母体なんだよね。

この亀山社中こそ、薩長両藩にとって重要な存在になっていくのよ。

重要情報を握る土佐の素浪人坂本龍馬

一介の素浪人坂本龍馬がなぜ大政奉還の裏書ができたのか?


この坂本龍馬の秘密結社が、1865年8月、大きな事件を引きおこす。

当時長州は倒幕の先鋒として、幕府から目の敵にされて京から追い出され、第二次長州征伐で潰されようとしていた。


なので、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていました。


そこでフリーメイソンのグラバー商会から薩摩藩名義で買い付けたミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺を、社中が長州藩へ渡している。


もちろん幕府には長州に最新の武器が渡っていることが知られ、その張本人が社中という浪人団体だということで詳細を確かめるため、スパイの長吉が首領の坂本龍馬一行に近づいたということではないか。

なので幕府方に薩摩と長州、その周辺のキーパーソンとして、坂本龍馬がマークされていたことは確かのよう。

坂本龍馬は幕臣勝海舟の弟子であり、幕府方の情報にも精通しており、薩摩方にとって有益な情報源であったことは確実。
また土佐浪士は長州にも入っており、両藩の動向をバランスよく知れる自由な立場であった。

坂本龍馬暗殺事件の夜、同じく殺害された中岡慎太郎は長州で活動していて、土佐浪士は長州や薩摩にとって眼であり、耳であった。

自分達の信念によって情報を制御できる立場にいた。

情報を握るものは絶大な力があった

幕府側という表の立場をもつ薩摩にとって亀山社中のリーダー坂本龍馬は重要情報を握る絶大な力を持っていたとしてもおかしくないのである。

土佐の素浪人である坂本龍馬が薩長同盟の裏書を記した事実こそ、その証明と言えるだろう。


中世ヨーロッパ全土の郵便業を担ったタクシス家が裏稼業で各地の情報を売買して巨万の富を得たように、ちょうど土佐浪士坂本龍馬が、藩に縛られない土佐浪士を束ねて、動きやすい立ち位置を利用し、長州と薩摩の間でタクシス家と似たポジションを担っていたとしたら?

郵便業の裏家業で絶大な力を握り富を独占したタクシス家

お世辞ではなく、いかに坂本龍馬が重要なキーパーソンだったかを推察することができるのではないか。


やはり坂本龍馬は明治維新で大きな役割を担った英雄だったというのは、あながち言い過ぎでもないような気がする。

時代を動かした坂本龍馬
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