ドラキュラ伯爵と言われた人物は実在していたが・・・
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- ドラキュラはブラム・ストーカー「ドラキュラ」の創作ではない
- 吸血よりも串刺しを好んだドラキュラ公
- 吸血鬼ストリゴイ伝説
ドラキュラはブラム・ストーカー「ドラキュラ」の創作ではない
そもそも、実在の人物がいた。
吸血鬼ドラキュラとは、ブラム・ストーカーの古典ホラー小説の名作「ドラキュラ」の創作ではあるが、ドラキュラ伯爵自体は15世紀に実在した人物だった。
そもそも、ドラキュラとは、現在のルーマニアの母体となったワラキア公国の言葉に由来している。
その「ドラキュラ」とは「悪魔」という意味があるとか。
ブラム・ストーカーが古い歴史書からのこの言葉を拾って自身の小説の主人公の名にしたところから由来している。
15世紀、ワラキア公国の民衆は彼のことを、「ドラキュラ公」と畏怖の念からそう呼んでいた。
吸血鬼ドラキュラのモデルというくらいだから、血も凍るおぞましい黒歴史が存在してはいるんだけど、実は「吸血」系モンスターではない。
また自国民や捕虜をさんざん醜悪な悪行により、その生涯で8万人も血祭りにしたと言われるドラキュラ公だが、なぜか現在、ルーマニアでは「国民的英雄」とされており、現地では大変尊敬されている。
彼こそ、吸血鬼ではなく、”串刺し公”と言われたドラキュラ、ワラキア公国ヴィラド3世である
吸血よりも串刺しを好んだドラキュラ公
現在のルーマニアの母体ともなったワラキア公国はオスマン帝国、ハンガリー王国に囲まれた小国だった。
日本の戦国時代に置き換えてわかりやすくいうと織田家と今川家に囲まれた松平家のようなものだった。
時節により、強い方に取り入り、なんとか時代を切り抜けていた。
15世紀、ワラキア公国ヴィラド3世の父と兄が自国貴族によって相次いで暗殺された。
それは自国貴族がハンガリーや、オスマン帝国をバックにワラキア公の跡目を狙った醜悪な権力争いから引き起こされた悲劇だった。
ヴィラド3世もハンガリーと手を結ぶ地元貴族に追われ、オスマン帝国に逃亡。
この事件がヴィラド3世の記憶に仄暗い影を落とし、後の残虐な黒歴史のプロローグとなった。
この事件で、ワラキア公国には富裕層のドイツ商人がハンガリーからの移民として流入して富の独占を図っていた。
そのことでワラキア公国の元々の自国民は富を吸い上げられ、まさに醜怪な吸血鬼に襲われた民衆そのもので、彼らは虚空を見上げてただ、涙する以外になかったのだ。
ドラキュラ公ヴィラド3世はオスマン帝国、ハンガリーと軍事支援してくれるバックを鞍替えしながら、1456年、ついにワラキア公の座を奪取する。
ここからドス黒い暗雲から凍れる血の雨がルーマニアの大地に降り注ぐことになる。
1459年、父と兄を暗殺した事件に関係した貴族とその家族200人を晩餐会に招待し、男性以外はその場で串刺しにして処刑し、男性は死ぬまで強制労働させた。
この血肉で建てられた城こそ、今も残るドラキュラ公の名城ポエナリ城なのだ。
ドラキュラ公の復讐の牙は自国のドイツ系移民に向けられた。
なぜなら彼らも父と兄を暗殺したハンガリー側の移民だったからだ。
ドラキュラ公の獰猛な殺気にみちた視線はドイツ系移民の富裕層に注がれていた。
ヴィラド3世の復讐の炎はドイツ系の村を丸ごと焼き払い、数千、数万というドイツ系移民を血飛沫と共に串刺しの餌食とした。
1462年の春、オスマン帝国のメフメト2世は9万人の軍を召集してワラキアへ進軍した。
ドラキュラ公ヴィラド3世はなんと2万3000人以上の捕虜とその家族を串刺しにして、敵の進路に遺体をさらし、怪しい妖気と恐怖がみなぎる奇怪なゾーンを演出。
フランスの歴史家マテイ・カザクはその様子を次 のように書き残している。
「幼児までもが母親と一緒に杭に刺され、 遺体のはらわたには鳥たちが巣を作っていた」
遺体を刺した杭が立ち並ぶ「死臭が漂う、生暖かい血が降り注ぐ森」を目にしたメフメト2世は、あまりの光景に愕然とし、
そのまま回れ右をしてコンスタンティノープルへ引き返したとか。
1499年出版された書物にはドラキュラ公ヴィラド3世が串刺しにしたオスマン帝国の捕虜やドイツ商人たちを眺めながら食事をしている版画が残されている。
現在の私たちの感覚からすると強烈な悪魔にしか思えないが実は当時、串刺し刑はそれほど珍しいものではなかったようね。
15世紀のヨーロッパ諸国の間で、キリスト教、イスラム教、いずれの圏内でも串刺しの刑はそれほど特異な刑ではなかった。
当時、重罪を犯した農民への見せしめとして最も卑しい刑とされていた。
ヴィラド3世がドラキュラ公、串刺し公と言われたのはそれを農民だけではなく、敵対関係のあった政敵、捕虜、自国の貴族までも串刺しにしたところにある。
ただ、搾取され続けた民衆には串刺しのドラキュラ公は血生臭い悪行に手を染めていても英雄だったらしい。
ところで、なぜドラキュラが「吸血鬼ドラキュラ」となったのか?
ここまでみてきた通り、確かにホラー映画になりそうな血の匂いが漂う黒歴史ではあるが、吸血鬼という定義には当てはまらない気がしてならない。
実はルーマニアには吸血鬼伝説も存在する。
吸血鬼ドラキュラとは、このルーマニアの”いにしえ”の吸血鬼伝説をベースにしたホラー小説にドラキュラ公のペーストを加えたものだったっぽい。
驚くことに中世ルーマニアでは、吸血鬼が実際に起こった事件として記録されているのだ。
吸血鬼ストリゴイ伝説
ルーマニアの神話には、ストリゴイという吸血鬼についてゾーッと産毛が逆立つ謎と恐怖が飛び交う逸話が残されている。
ストリゴイは、墓から這い出てよみがった霊で動物に変身し、犠牲者から血を吸うことで活力を得る醜怪な化け物とされている。
実はかなり歴史は古く、1689年に出版された科学者ヨハン・ヴァイハルト・フォン・ヴァルヴァソル著「カルニオラ公爵夫人の栄光」に最初の吸血鬼ストリゴイの出現について記録されている。
この書籍はルーマニア地方の歴史、地理、地形、医学、生物学、地質、神学、習慣および民俗学をまとめた百科事典のようなものらしい。
歴史的な記録として最初に吸血鬼ストリゴイと記載された人物は、現在のクロアチアのイストリア地方に実在したジュレ・グランドという村人についてだった。
ジュレ・グランドは1656年に病気で亡くなくなるんだけど、伝説によると、夜に吸血鬼として墓からゾゾゾゾォ〜っと這い戻り、1672年に再び斬首されるまで村を恐怖に陥れたらしい。
小さな街クリンガでは夜な夜な家のドアをノックする者が現れ、ノックされた家に住む誰かが数日以内に殺される奇妙な事件があった。
その人物が墓から這い出た血に飢えた吸血鬼ストリゴイとなったジュノだった。
ある夜、9人の村人が棒を持って墓へ行き、ジュノ・グランドの墓を掘り起こすと、凍りついた笑顔のジュノを発見。
恐怖で我を忘れた村人たちはノコギリで吸血鬼となったジュノを切り刻むと悲鳴が聞こえ、傷口からは血が流れたとか。
いやいや、こんなことが実際にあったとは思えない!
そういう声が聞こえてきそうね。
ただ、これは物語ではなく、科学者が記述した記録だというところが気になるところだ。
実はこの吸血鬼騒ぎは超自然現象だった可能性もある。
なのでこの「吸血鬼事件」が実際に起こった?と勘違いさせることが起こっていた可能性もある。
それについては別の記事に詳しくまとめているのでそちらをどうぞ。
→吸血鬼ドラキュラ伝説は実話!超自然現象だった!
ところで、この吸血鬼ストリゴイは実はいまだにルーマニアに現れ、人々の心臓を凍らせるかのような異様な恐怖感によって串刺しにしているようだ。
それを証明するかのように奇怪な事件が発覚することがあるみたい。
2003年のクリスマス前、マロティヌ・デ・ススの村で、76歳のルーマニア人男性ペトレ・トーマが亡くなった。
2004年2月、そのペトレの姪は、亡くなった叔父が突如現れたと公表。
義理の兄弟であるゲオルゲ・マリネスクは、数人で構成される吸血鬼狩猟グループのリーダーになっていた。
ある日、酒を飲んだ後、ペトレ・トーマの棺桶を掘り、胸を切開し、心臓を引き裂いた。
当然、吸血鬼狩猟グループは「死者の平和を乱す」と警察に逮捕された。
故人の家族に支払う損害賠償を宣告された。
遺体を発掘した吸血鬼狩猟グループのメンバーは起訴され、6か月の刑を宣告された。
それ以来、近くのアマラシュティ・デ・スス村では、「予防策」として、杭を死者の心臓や腹に突き刺しているとか。
吸血鬼ストリゴイは今も世界の仄暗い片隅で、人々の心の中でひっそりと生き続けているらしい。