ナチスは最初から絶滅計画を持っていたわけではなかった!
「ナチスがユダヤ人をホロコーストにした経緯が知りたい」
「ナチスがホロコーストに至った歴史が知りたい」
そんな方に向けた記事になります。(2021/04/03 更新)
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- ナチスがユダヤ人を強制収容した狡猾で愕然
とする悪魔の計画とは? - 第一段階:ユダヤ人への人種差別が合法化された
逆転世界 - 第二段階:人種差別と憎悪がみなぎる民衆で
無法地帯と化した”水晶の夜” - 第三段階:中世に実在したゲットーの復活
- 最終段階:ユダヤ人のホロコーストで絶滅計画
を決行
ナチスがユダヤ人を強制収容した狡猾で愕然とする悪魔の計画とは?
ただ、ユダヤ人だというだけでよ?
まさか列車を降りて数時間後に自分が焼却炉の黒い煙になるとは誰も想像も予想もしなかっただろうね。
ユダヤ人は1933年にヒトラー率いるナチスドイツが政権を獲得し、一党独裁体制を強いたあたりからゆっくりと運命の歯車が変な”きしみ”をあげだしたのよ。
はじめから大虐殺するつもりはなかった。
ナチスの中では結果的にホロコーストする以外になくなったというところかなぁ。
だけど1942年からはただ、「ユダヤ人」というだけでホロコースト対象となった。
ナチスは最初から絶滅させるつもりだったのかどうかわからないけど、少なくともプロセスを踏んで徐々に「ユダヤ人迫害」を正当化してドイツ国民に浸透させたことは間違いない。
ただ、ドイツ国民の中ではユダヤ人への拳が震えるほどの憎悪が腹の底深くに沈澱していたことは確かなのよ。
第一段階:ユダヤ人への人種差別が合法化された逆転世界
なぜ、ヒトラーがこれほどまでにユダヤ人を敵視したのか?
第一次世界大戦後の荒廃したドイツの惨劇の原因の一端がユダヤ人にあったとしたらどうする?
このユダヤ人に憎悪を抱いたきっかけについては別記事にまとめているのでそちらをみて欲しい。
深堀レポ記事 >> ヒトラーがユダヤ人をホロコーストにした理由
第一次世界大戦を敗北に導き、天文学的な賠償金を課せられた原因となり、ドイツを牛耳ろうとしたユダヤ系革命家たちが夢描いた世界はドイツ国民の怒りと憎悪を生み出し、それはナチズムへと変貌を遂げる。
そんな世の中の不満、憎悪を感情的に訴えるヒトラーが時代を暴走させていった。
1933年、ついに政権奪取したヒトラーは早速、ユダヤ人迫害計画に着手する。
まずはユダヤ人店舗の購買ボイコットキャンペーンというユルいところから始める。
だけどこの政策は当時国民には受けが悪く、ほぼ無視されるような状況だったらしい。
ただし、1933年4月7日、ユダヤ人の前に、妖術とも思える演説術で国民を扇動し、皮肉な微笑を浮かべる独裁者が立ちはだかった。悪名高い公職追放法を公布したのだ。
これは「非アーリア系」は法曹界、医師、教員、教授、農業従事者、ジャーナリズム、スポーツ界から追放されるという法だった。これも実は不評だった。
この「非アーリア系」とは、アーリア人以外の両親、祖父母から生まれた者とされた。この最初の法については、明らかに非アーリア系とは「ユダヤ人」をさしていたが、「ユダヤ人」とは明記されてはいなかったからね。
そのため、1935年ニュルンベルク法の公布で、その不評だった「非アーリア系」を「ユダヤ人」だと明記したの。
ユダヤ人の定義とはユダヤ教に改宗した者を指すのが一般的だが、そうではなく、血統、人種、血脈が決定的要素だと明記された。
そういう意味ではナチスは特定の宗教弾圧はしていない。全くしていないかというとそうではなく、公平に弾圧してた。
これについては詳細は別記事にまとめてるのでそちらをどうぞ。
深堀レポ記事 >> ヴァチカンがナチスのホロコーストを批判できなかった理由
また、ユダヤ人とアーリア人の婚姻、性交渉の禁止、45歳以下のアーリア人がユダヤ人家庭で雇われることを禁止、またユダヤ人がドイツ国家を掲げることを禁止した。
ユダヤ人男性と付き合っていたドイツ女性が髪をめちゃくちゃに切られ、卑猥な看板を首から下げられて街を徘徊させられるような事件も発生し、疑惑や憎悪、激しい恐怖の色に染まった視線が飛び交う仄暗い時代に突入していた。
こんなユダヤ人追放令とも言える法があっては生活もできないようになり、1933年から、その年末までに3万7000人、その後も毎年20000人近いユダヤ人がヨーロッパの他国へ移住することを余儀なくされてしまう。
がほとんどのヨーロッパ諸国は高い呈示金を条件にしていたため、富裕層以外の一般のユダヤ人にはどこにも出られない状況に陥っていた。
ニュルンベルク法の公布の1935年ごろでは上記のような世界にすでになっており、あらためて法整備されたのみでユダヤ人的にもそれほど大きなインパクトはなく、むしろ、ヒトラーはこれで最後と公言していたこともあってこれ以上の悲劇はないと思っていたようだが・・・
だけど残念ながら、これは耳を塞ぎたくなるような悲劇の鎮魂歌の序曲に過ぎなかった。
ここから過激化していき、ユダヤ人の企業経営が禁止され、1935年11月には市民権、投票権も剥奪されてしまう。
また、余談だが、この先、ユダヤ人の元弁護士、医師、教授といった知識層の人々は真っ先に殺害されていった。
なぜなら、次世代のリーダーになりうる危険性は摘み取るということだったらしい。
なのでアウシュヴィッツでは職業を聞かれ、上記のいずれかの場合はその場で射殺されたと証言が残っている。
そうして1938年3月、ナチスの隊をなした軍靴の音は不気味な地響きとなって他国を侵略し始めたのだ。
この年、ナチスはオーストリア併合した。そのため、オーストリア国内のユダヤ人にも同様に法が適用されることになったのだ。
オーストリアに住んでいた6万人のユダヤ人が目の前に突如出現した悪夢に茫然自失となり、絶望の色に染まった視線をただ、ドス黒い雲に覆われた空に向けるしかなかったのだ。
第二段階:人種差別と憎悪がみなぎる民衆で無法地帯と化した”水晶の夜”
1938年3月のオーストリア併合から1939年9月のポーランド侵攻まででなんと12万人ものユダヤ人が追放されてしまうが、これがアメリカを含めたヨーロッパ各国でユダヤ人難民が大問題となっていた。
1938年6月時点で移住の申請者はなんと30万人を超えていたが、どの国も受け入れを拒否したため、出国自体ができない状況となっていた。
アメリカが8万5000人受け入れたが、国内の反ユダヤ主義、それに1929年の世界恐慌の影響から回復していなかったため、それ以上は無理だった。
あと受け入れしたのはボリビアが2万人程度のみだった。
世界はナチスの態度を批判してはいたが、ユダヤ人に対して額から冷や汗を流しながら、氷のように冷たい背を向けた。
そんな中、ナチスドイツとポーランドのいざこざから歴史はとんでもない方向へ進んでいくことなる。
ドイツ国内ではユダヤ系ドイツ人が激しい迫害にさらされていたが、ドイツ在住のユダヤ系ポーランド人は比較的迫害から免れていた。
いかに“とんでもナチス”といえどポーランドと国交を結ぶ限りはポーランド人に正当な権利を認めなければならなかった。
元々ポーランドは中世の時代、1264年に公布されたカリシュの法令によってユダヤ人を受け入れ、権利と生活の安全を保障したことからユダヤ人が多い国で300万人程度いた。
ところがポーランド政府は1938年10月6日、全てのポーランド旅券に、新たな検査済みの認印が必要であるとする新しい旅券法を布告。
これによりドイツ在住のユダヤ系ポーランド人の旅券と国籍が無効となった。
つまりポーランドもドイツと同じくらい反ユダヤ主義であったため、ドイツ在住のユダヤ系ポーランド人は母国に捨てられてしまったというわけなのよ。
いきなりユダヤ人を押し付けられたナチスは大激怒!
ナチスは17000名のユダヤ系ポーランド人を狩り立て国境へ移送したが、ポーランド側も国境を閉鎖。
ドイツ政府からもポーランド政府からも受け入れを拒否されたユダヤ人たちは国境の無人地帯で家も食料もない状態で放浪することとなり、彼らは窮乏した生活を余儀なくされ、餓死者まででる有様だったという。
そんな地獄の真っ只中にいた、あるユダヤ系ポーランド人がパリにいる家族に惨状を訴えたところ、そのパリのユダヤ人は世界にユダヤ人の現状を訴えるため、11月7日、なんとパリのドイツ大使館へ生き、書記官に発砲して暗殺。
11月9日、打たれたラート書記官は死亡した。そのユダヤ人は事件を起こしてユダヤ人の惨状を訴えたかったらしいが、逆に惨劇はここから始まったといえる。
マエストロたるヒトラーがタクトを大きく振り下ろし、鎮魂歌が響わたりはじめたのだ・・・
これをきっかけにナチス突撃隊SAがユダヤ人を急襲。ユダヤ人店舗は7500店舗が焼かれ、ユダヤ人に殴る蹴るの暴行、96人の死者も出している。
ゲシュタポから「邪魔しないように」と電報が打たれており、誰も取り締まらなかった。
ドイツ各地のシナゴーク(ユダヤ教の集会所)は焼き払われ、破壊された。
殺人関与した者は逮捕されているけど、何もなかったかのように無罪放免。
ユダヤ人女性を強姦した者は強姦罪ではなく、ユダヤ人とは性交渉してはいけない法に触れたことによる処罰だったとか。
またまた、この事件はヒトラーの命令だったのか?
それとも自然発生だったのかは謎とされているが限りなく黒に近いグレイだろうね。
この事件は“水晶の夜”と言われ、名前の由来は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたところにヨーゼフ・ゲッベルスが名付けたらしい。
この事件によってナチスは明確に、ユダヤ人を法で権利を認められた人間ではないことを明確にしていく。
またヨーロッパ中に存在するユダヤ人難民問題が解決できない課題として浮き彫りになっていったのだ。
第三段階:中世に実在したゲットーの復活
1933年以降、1937年まで毎年2万人、1938年は4万人、1939年には7万8千人のユダヤ人がドイツ帝国から出国していたが、どの国も受け入れ拒否したことでユダヤ人の行き場は無くなっていた。
ナチスは、1939年9月のポーランド侵攻で獲得した占領地の半分を総督領として管理し、そこを労働力を提供する特別区とした。
当然ナチスドイツの支配地域のユダヤ人が移送される計画となった。
そこでヒトラーは中世ヨーロッパに実在していた、法的にユダヤ人の居住地区と制限した場所ゲットーを復活させた。
東欧諸都市にゲットーを設置し、1940年10月に最大規模のワルシャワ・ゲットーを建設した。
ゲットーは出入り禁止とされ、ユダヤ人たちは、ダビデの星を腕などにつけさせられ、1942年、1943年の移送でトレブリンカやアウシュヴィッツ等のユダヤ人強制収容所に移送されるまでそこに住んだ。
監視が厳しく、外は高く厚い壁と脱出防止の電線や有刺鉄線が敷かれ、逃亡を試みたユダヤ人はみな射殺された。
下水設備などはほとんどなく、密集した生活環境と極端な食料不足により、伝染病の流行や飢餓で何十万もの人が死に至った。
まさに不衛生の極みでハエさえも寄り付かない悪臭と汚物の中での生活を強いられていた。
1941年だけで47万人がワルシャワ・ゲットーに閉じ込められ、そのうち5万人は飢餓と伝染病で亡くなったとか。
まさに現代版「秀吉の鳥取城飢え殺し」というところか。
ただ、その疫病がゲットー外にも影響を及ぼし、また、食糧難からナチスの上層部では「極論」の声が出始めていた。
つまりは、労働力にならない者は生かすだけ無駄だと・・・
悪鬼を振り撒きながら激しくタクトを振るヒトラーの眼は感情の色が消え、得体のしれない妖気と狂気にみなぎっていたのだ。悲哀に満ちた鎮魂歌がその時代を包み込もうとしていた・・・
最終段階:ユダヤ人のホロコーストで絶滅計画を決行
1940年以降、東欧に侵攻したナチスは各地でゲットーを設置してユダヤ人を押し込めていたが、ナチス第三帝国の支配地域全てからユダヤ人を総督領のゲットーへ移送することは数的に不可能だった。
また、1933年以来のユダヤ人難民の問題は解決していたわけではなく、占領地の拡大とともにユダヤ人問題は膨張していった。
1942年、ユダヤ人の運命は霧に包まれはじめた。
東欧に設置されたゲットーが閉鎖され、そこに移住させられていたユダヤ人が貨物列車に乗せられ、各地に設置されていた絶滅収容所に輸送されたのだ。
この年、「ユダヤ人問題の最終的解決」としてナチス上層ではユダヤ人の絶滅を決定した。
ヨーロッパの問題となっていたユダヤ人難民問題。全ての国に背を向けられたユダヤ人をどう対処するかが問題となっていた。
それは「なぜこのヨーロッパにユダヤ人がそもそも存在しているのか?」という疑問にすり替わった。それに対してナチスは回答を示した。ホロコーストという回答をね。
列車は最寄りの収容所までユダヤ人を輸送したんだけど、もちろん道中、飲まず食わず。
乗車中に死んだ人も少なくなかったとか。
また列車から下ろされるとアウシュヴィッツの絶滅収容所前で選別された。
労働力になるもの、ならないもの。列車に載せられた2000人のユダヤ人はなんと、たったの72時間で焼却棟の黒い煙となった。
1942年ワルシャワ・ゲットーからトレブリンカ絶滅収容所へ輸送された25万3000人のユダヤ人はなんと2週間でガス室で絶滅させていたんだから、その悪魔級の効率性の高さに戦慄が全身を駆け巡る。
その強制輸送された列車には、ゲットーに収監されていなかったユダヤ人まで乗車していた。
彼らがなぜアウシュヴィッツ絶滅収容所に来たのかというとナチスドイツの支配下の国や町に対して
「第三帝国に働きに出るユダヤ人だけが生き残れることを保障する」
と公告が出されていたのだ。
ただ、だからってはい、そうですかとそそくさと出てくるほどユダヤ人は馬鹿じゃない。
しかし、どうもナチスの方が一枚上手だったようだ。
この頃、絶滅収容所のアウシュヴィッツにすでに収監されていたユダヤ人たちの労働環境が激変していた。
それまではアウシュヴィッツで最悪の労働環境で毎日脱落者、つまり死人が出る様で収容されたユダヤ人の50%以上が死んでいる有様だったが、1942年からはなぜか一番楽な仕事に転属していた。
実はあまり知られていないんだけど、アウシュヴィッツに収容される際の手続きで身内の住所を登録させられ、月に2度手紙を出せる制度があった。
もちろん、手紙の内容はナチス親衛隊SSに全て検問を受け、OKの場合のみ郵送された。実は1942年から楽な仕事に回されたユダヤ人は家族宛に「快適に過ごしている」と手紙を送っていた。
ユダヤ人コミュニティでは情報を共有しており、この手紙で「労働環境は悪くない」という偽情報が蔓延してしまっていた。
アウシュヴィッツから仲間に偽手紙を郵送してしまったユダヤ人は用済みということで数ヶ月後に灰になった。
そんな偽情報があったのでなんの疑いもなく、ゲットー以外のユダヤ人はナチスを信じて意欲的に列車に乗ってしまったということなのだ。
そんなユダヤ人たちは自分たちの財産を持ち運びできるようにダイヤや金塊に変えてアウシュヴィッツ絶滅収容所に輸送されていた。
この時代、流通していたダイヤや金塊の流通元はアウシュヴィッツだったとも言われている。
こうしてユダヤ人は1933年から人権を奪われ、ヨーロッパ各国から受け入れ拒否にあうという不運にも見舞われながら、時代の流れは確実にホロコーストへのプロセスとなっていた。
そして600万人以上も強制的に灰にされていたのだ。