古代エジプトのミイラが魅了する憎悪の色
「マミーブラウンってなぜマミーっていうの?」
「呪われた絵画の呪う理由って何?」
そんな疑問を持つ方に向けた記事になります。(2021/02/11 更新)
/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_
- 呪われた絵画ミステリーは本当かも!?
- 類まれな色彩と妖気を放つ画材マミーブラウン
- 薄ら笑いを浮かべる欲深な商人達の凍りつく史実
- 恐怖と好奇心のショーから古代エジプト学へ
- 知らずに筆を走らす画家達
/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_
呪われた絵画ミステリーは本当かも!?
こんな救い難い、恐怖に満ちた事実はない。
世界には呪われた絵画と呼ばれるものが点在している。
通行人にギョロギョロと得体の知れぬ邪気で視線を送る『ベルナルド・デ・ガルヴェスの肖像画』や、『叫び』で有名なエドヴァルド・ムンクの作品で『死せる母』からは悲鳴が実際に聞こえたとか。
ジョバンニ・ブラゴリンの『泣く少年』は、所有していた人の家を次々と火災が襲うという。
不思議なことに家は全焼しているのに絵は無傷だったとか。
1830年の7月革命を主題とした、 フランスの国民精神が体現されていると評されるウジェーヌ・ドラクロワが描いた「民衆を導く自由の女神」。
よく世界史の教科書にも掲載されていたりするんだけど、実はこの絵にはドス黒い、題材とは真逆なもの、憎悪、怨念、そして地獄の叫びが塗りこめれていることをご存知だろうか?
こういった呪われた絵画ミステリーはよくあるホラーネタではあるんだけど、大体・・・
「怖いね?呪われた事実が実際にあったエピソード」
を紹介したりするんだけど、
ここではなぜ呪われているのか?
にスポットライトを当てたい。
そこには想像すら及ばない、奇怪で、ゾッとするような真実に腹の底がズーンと重くなる不気味な歴史があったのよ。
類まれな色彩と妖気を放つ画材マミーブラウン
絵画を趣味とする人なら聞いたことあるはずの”マミーブラウン”。
現在”マミーブラウン”の名前で販売されている顔料は、カオリン、石英、および針鉄鉱と赤鉄鉱を混合したもので、全体のおよそ60%をしめる針鉄鉱と赤鉄鉱がその色調を決定している。
この”マミーブラウン”は16世紀、17世紀ごろより、その透明度の高さからグレーズ画法、濃淡や陰影、明るい色調の描写に用いられたらしいのよ。
それは良いとして、”マミーブラウン”はなぜ「マミー」なのか?
英語でmammyとはお母ちゃんとか、よく映画で子供がママを呼ぶときなんかのシーンに聞こえてくるよね?
でもこのマミーはそうではなく、「mummy」なの。
一文字違いなんだけど、これはミイラを意味する。
そう、”マミーブラウン”の原料は元々鉱石などではなく、古代エジプトのミイラ、つまりは人間そのものだったというのよ。
でね、古代エジプトで発掘したミイラなら千歩譲ってまだマシかも知れないけど、ここに妖気がからんだ暗雲立ち込める血生臭い惨劇が隠されているのよ。
なぜ呪われるのか?
そりゃぁ、呪うでしょ?
こんなことされては・・・
薄ら笑いを浮かべる欲深な商人達の凍りつく史実
現代の研究者であれば、古代エジプトのミイラに最大の敬意と注意を払って接するはずなんだけど、かつてそうではない時代があったようようね。
中世ヨーロッパにおいてミイラが研究対象というよりも、薬や顔料といった商品だった時代ね。
15世紀には、ひと儲けをもくろむ商人たちによって、エジプトからヨーロッパへミイラを運び出す「ミイラ取引」が盛んにおこなわれてたみたい。
死後の世界のために体を保存するミイラ作りは、複雑な工程で大体30日から40日ほどかかってる。
今と同じでどうも値段によって色々ランク付けがあったみたいだけどね。
基本的な作り方は変わらなかった。
内臓を取り除いた後、ナトロンと呼ばれる天然の鉱物を使って体を乾燥させます。
没薬(もつやく)などの香料を加え、体に油と樹脂を塗り、亜麻布やおがくずを詰めて布で全体を包み込む。
なぜミイラが薬に使われるようになったのかは、専門家にもわかってない。
ヨーロッパでは、防腐処理を施された遺体に超自然的な癒しの力があると信じていたようね。
中世ヨーロッパではコッドピースとかいう「ち●こケース」を装着することが流行したりしたヨーロッパだから、なんでもありなのよ。
その中世ヨーロッパの世界で癒し効果があるとされた瀝青(れきせい)がミイラに含まれていると誤解されたためだと指摘する学者もいるみたい。
黒くて粘着性のある瀝青は、死海周辺で産出する原油由来の炭化水素化合物で、西暦1世紀の学者プリニウスやディオスコリデス、2世紀のガレノスが、その薬効について書き残してる。
ディオスコリデスは、アポロニア(現在のアルバニア)産の液体の一種について記述し、ペルシャ語で「ムンミヤ」と呼ばれていると説明した。
またプリニウスによれば、創傷やその他様々な病気に効果があったといわれていたみたいだけど、実際はどうでしょうかねぇ?怪しいね。
奇想天外な中世ヨーロッパの学者たちは、エジプトの墓で発見された黒っぽい物質を見て、その瀝青ではないかと考えたみたい。
11世紀の医師コンスタンティヌス・アフリカヌスは、ムンミヤとは「死者の墓で見つかった香辛料」で、「黒く、異臭を放ち、輝きがあり、大きいものほど質が良い」と書いてる。
ヨーロッパでミイラが薬になると考えられるようになったのは、15世紀のこと。薬用ムンミヤの需要が高まったのがきっかけだが、天然の瀝青は希少だった。
そこで腹がドス黒い商人たちはその代替となる古代エジプトのミイラを探しにエジプトの墓へ出かけて行った。
ミイラの体とそこに含まれる樹脂、油、香油をすりつぶしてみると、ペルシャのムンミヤと粘度も色もそっくりなものができたとか。
しかも、ムンミヤよりも香りも良かった。
なんだけど、そう簡単にミイラが手に入るわけではなかった。
今も昔もエジプトからミイラを持ち出すことは禁止されていたの。
とはいえ、エジプトから出向する船にはミイラだらけだったようだけど。
まぁ、ミイラを発掘するのにも根気とお金が必要だしね。
ところが欲深い商人たちは自分たちで古代エジプト風のミイラを作り出したという。
なんともいえない戦慄が背筋を貫く、悪意と妖気に満ちた史実なんだよね。
ただ、さすがに薬屋の目はごまかせなかったようで、薬を買い付けるためにアレキサンドリアまで旅した、ガイ・デ・ラ・フォンテーンは1564年に、古代ミイラと称されていたミイラの多くが最近作られたものだったと、恐怖で思わずのけぞってしまうような事実を暴露してる。
だけど最近死んだばかりの人間を、どうやって古代エジプトのミイラに見せかけたのか?
思わずギロリと疑惑と恐怖という名の好奇心の色で興味を抱いてしまうからこんなブログ書いてるんだけど。
ドミニコ会のスペイン人僧ルイス・デ・ウレタは、1610年に著した『エチオピア王国の歴史』のなかで、ゾッとするようなミイラの作り方について詳述している。
よくもまあ、こんなおぞましい、血の気も通わぬ、凍りつくレシピを考えつくもんだ。
その『エチオピア王国の歴史』によれば、捕らえられた人間を何度も飢えさせて特別な薬を与え、眠っている間に首を切り落とす。
その後、体中の血を抜いて香辛料を詰め、わらに包んで、15日間にわたり土中に埋める。
それを掘り起こして、24時間天日干しにする。
すると、皮膚はどす黒く変色し、インスタントミイラの出来上がりってわけなのよ。
恐怖と好奇心のショーから古代エジプト学へ
こうしてできた古代エジプトのミイラのようなミイラは画材店などにも原料として販売されていたのだろう。
それをすりつぶして粉末にしたものが少なくとも16世紀以降、人間のミイラから作られた「マミーブラウン」という顔料で、その「マミーブラウン」が、ヨーロッパの画家のパレットに乗るようになった。
ミイラの粉末を、松脂、没薬と混ぜ合わせたもので、当時はミイラから薬を調合していた薬屋が顔料屋を兼ねることもあった。
ルネサンスの画家たちは、マミーブラウンの豊かな色調や汎用性からこれを重宝し、陰影や濃淡を出したり肌の色を出すために使ったという。
ミイラ由来の顔料が人間の肌色に使われるとは、これこそ生まれ変わり?
ただ、偽物のミイラも混じってたわけで、それは憎悪と怨念が生み出した妖艶のマミーブランだったに違いない。
18世紀になると、ミイラが薬に使用されることはなくなったみたい。
ヨーロッパ人のミイラに対する見方は変わり、学者たちはミイラを包む布の中身に興味を抱くようになる。
こうして、ミイラ開きが娯楽イベントとして盛んに行われるようになったの。
初めの頃は個人の家で、後の時代になると、公共の劇場でも行われてた。
ミイラ開きが初めて記録されたのは1698年、カイロに赴任したフランス領事のブノワ・ド・マイエがミイラを包んでいた布を開き、中身を克明に記録してる。
1700年代初頭には、ザクセン・コーブルク公の薬屋だったクリスチャン・ヘルツォグが観客の前でミイラを開いて見せ、その中から出てきた遺物について詳細を本に書いている。
ミイラ開きを見世物にした、学術的な探究心とは程遠い、恐怖と好奇心の入り混じったショーは、19世紀に入っても続く。
英国人外科医トーマス・ペティグリューのミイラ開きは広く人気を集めましたようね。
ところがある時、ミイラの骨に大きな腫瘍を発見したペティグリューは、それをきっかけにミイラとは実際の人間の記録であることに気付いた。
そして、これによってあるひとりの人間の人生を再現させることも可能であると考えるようになりました。
こうして、ミイラ研究は観客を前にした見世物から、科学分析の領域へと移行していったのよね。
19世紀後半から20世紀の初めにかけて、重要な考古学的発見が相次ぎ、新たな見識がもたらされ、古代エジプト学はより正式な学問へと発展していったというわけだったの。
そんなマミーブラウンだけど、原料が人間だったとは画家は知らなかったみたいね?こんなエピソードがある・・・
知らずに筆を走らす画家達
英国の画材製造会社で、宮廷画家からウィンストン・チャーチルのようなアマチ ュア画家まで、さまざまな画家たちに愛用されていた絵の具を提供していたC・ロバーソン社の商品カタログには、1933年までマミーブラウンが 掲載されており、1980年 代末まで、店内にミイラの破片があったとか。
1860年代のある日、作家のラドヤード・キプリングがマミーブラウ ンは本当にミイラから作られているのだという話をすると、おじのエドワード・バーン=ジョーンズは恐怖で眼玉が飛び出さんばかりに愕然とし、そして震え上がり、自分のアトリエからマミーブラウンが入 ったチューブを持ってきて、そのまま庭に埋めてしまったという。
1830年「民衆を導く自由の女神」を描いたウジェーヌ・ドラクロワもこの妖艶なマミーブラウンの原料が人間だったとは知らなかったかもしれないね。
なぜ有名な絵画には人を惹きつける説明のつかない魅力があるのか?
その理由のひとつこそ、この憎悪と妖気に満ちた画材マミーブラウンなのかもしれないね。