本能寺の変の黒幕はやっぱ秀吉か?作為的誘導説

ゾッとする羽柴秀吉の策略とは?

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  1. 「ハルノート」が証明した
    黒幕羽柴秀吉の作為的誘導説とは?
  2. 本能寺の変後、
    なぜ近衛前久は逃亡したのか?
  3. 四国政策の謎の方針転換
  4. 羽柴秀吉のネットワーク

「ハルノート」が証明した黒幕羽柴秀吉の作為的誘導説とは?


人が相手を意図通りに誘導することなんて可能なのか?
長い歴史を紐解けば、それが可能だと説明してくれる。



太平洋戦争直前、日本はアメリカと開戦するか否かの選択を迫られていた。

しかし日本側は当初アメリカと戦争する気などなかった。
アメリカ留学経験を持つ政府、軍隊の高官達は口をそろえて開戦反対派だった。

海軍将校の英雄で、真珠湾奇襲作戦の立案者である、山本五十六さえも当初反対していたのである。

1941年11月26日に日米交渉においてアメリカ側担当者であったコーデル・ハル国務長官から日本側に提示された交渉案で、有名な”ハル・ノート”と言われるものだ。

日本に開戦させた悪魔のハルノート

詳細は他の歴史書に託すとして、当時の日本帝国はアメリカとの戦争を避けようとする交渉推進派と開戦強行派がいた。
当時外相だった東郷は推進派だったがハル・ノートを見て、

「自分は目もくらむばかりの失望に撃たれた」

「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」

と交渉により自体の打開を図ったが日米開戦は避けられないことを悟っている。
つまりこのハル・ノートで日本は米英開戦を決意したのだ。


 フランクリン・ルーズベルト大統領とスティムソン陸軍長官との会見内容がスティムソン陸軍長官の日記に残されており、その内容とは「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして彼ら(日本)を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」と書いている。


日本側に提示した二日後の軍事評議会でコーデル・ハル自身が日本との間に協定に達する可能性は事実上なくなったと確信している。

羽柴秀吉も、明智光秀に対してこの状況を構築していたと思えてならない。
まずは本能寺の変後の奇妙な逃亡劇からはじめたい。

調べていくうちに新たなドス黒い影の向こう側に羽柴秀吉の姿がぼんやりと見えてきた

本能寺の変後、なぜ近衛前久は逃亡したのか?


本能寺の変の黒幕説の1人で1582年5月まで太政大臣だった近衛前久。
なぜ黒幕扱いにされていたかは、変後の前久の動向にある。

なぜか3男信孝、羽柴秀吉より本能寺の変関与を疑われていて、一次嵯峨に逼塞し、ついには徳川家康を頼って遠江へと逃亡してる。

信長と親しかった近衛前久


通説では「信長公記」の中に、本能寺の変の渦中、光秀の軍勢が信長の嫡男信忠が籠っていた二条御所を襲撃 した際、光秀軍が同御所に隣接していた近衛前久の屋敷(近衛殿)の屋根に上り、上から弓・鉄砲を御所内に打ち込み、信忠方を壊滅状態に追い込んだとの記事があることから、この記事の内容を基に疑われたとされてきた。

この信忠の二条城の死闘についてどこにもないミステリーをまとめたので是非参照されたい
本能寺の変、信長信忠替え玉疑惑?ミステリー

ただ、勝手に屋根に上がって攻撃を加えていたかもしれないし、これで謀反に加担していたというのはいくらなんでも乱暴のように思える。

最近、新史料の発見から大きく歴史が覆って来ている。

2014年に公表された『石谷家文書』のうち、本能寺の変の翌年近衛前久が長宗我部元親の許にいた石谷光政、頼辰親子宛の書状の中に、前久が疑われ た理由が明記されていた。


同書状で前久は、天正9年(1581)冬、安土において信長に対して長宗我部元親のことを種々悪様に讒言する者がいて、 信長がその讒言に同調して元親と断交しようとした時、前久らが元親を擁護 して取り成した経緯があったので、それを根拠として謀叛共謀を疑われたとの趣旨を記している。


そこで新たな疑問が生まれてくる。

それは

「なぜ中国征伐で忙しかった1581年の秀吉が、中国方面から遠く離れた中央の信長周辺の事情、それも四国政策事情を知っていたのか?」

ということだ。

四国政策の謎の方針転換


天正3年(1575年)には織田信長は中国の毛利征伐を視野に入れていた。

四国情勢が天下分け目だったかも

毛利家は四国の阿波・讃岐・河内に勢力を張る三好一党や伊予の河野氏と同盟関係があり、一大勢力となっていたの。
そこでこの頃、土佐統一を果たした長宗我部元親に目をつけた。

おそらく、これは明智光秀の進言があったんだろうと思う。
1570年ごろから稲葉一鉄の配下だった斎藤利三を引き抜き、この機会を伺っていたっぽい。


斎藤利三と長宗我部元親の関係は本能寺の変と大きく関係がある。
そこは別記事でまとめてるのでそちらを参照されたい。

本能寺の変は斎藤利三に原因あり?核心でなく、きっかけ?

ところでこの天正3年(1575年)に信長は明智光秀の家臣斎藤利三を通じて「四国の儀は元親手柄次第に切取り候へ」(四国はあんたの切り取り次第ご自由に!)という朱印状を渡し、毛利勢力の背後を撮らせた。

ところが同じ年、毛利側の三好家が衰退して名器「三日月」を信長へ譲渡して降伏。
切り取り次第自由の長宗我部元親は徐々に勢いが増していき、同じ織田側になっていた三好康長の領土にも手が伸びてきた。


そこで天正7年(1579年)、三好康長はなんと羽柴秀吉に近づいていく。

四国は実に奇妙な政治情勢となっていた。
四国の体勢を制覇しようとする長宗我部には明智光秀がバックに控え、風前の灯火の三好康長には羽柴秀吉がバックについたのだ。

羽柴秀吉にとってギリギリと歯軋りするほど新参者明智光秀が羨ましく、悔しかったに違いない。


その頃明智光秀は細川藤孝と丹羽・丹後を制圧し、34万石の大大名となっていた。

もちろん織田家筆頭の実力者で信長の寵愛を独占していた。
織田家中の明智光秀に対する妬みを強烈で、フロイスの明智光秀評にもしっかり書かれてる。

その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、
主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあって彼は余所者であり、外来の身であった
ので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが受けている寵愛を保持し増大する
ための不思議な器用さを身に備えていた。彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装するのに抜け目なく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。

フロイスの日本史より

一言でいうなら「めっちゃ嫌な奴」という感じだろうか。

羽柴秀吉にしてみれば、出世するには明智光秀を陥れる必要があった。
こういう奴には一度ドジ踏んで欲しいもんだよね。

天正9年(1581年)3月、領土を占領された三好康長は信長へ長宗我部に占領された領地を返還するよう訴える。
名器「三日月」を手に入れて上機嫌の信長は阿波勢と長宗我部氏の調停と称して、元親に阿波国の占領地半分を返還するように命じた。


さらに反応がないので天正10年(1582年)1月、信長は光秀を介して長宗我部は土佐1国と南阿波2郡以外は返上せよという内容の新たな朱印状を出している。


しかし、これは長宗我部にとって明らかに聞き入れ難いもので「拒否」前提の朱印状と言わざるを得ない。
おそらく背後に羽柴秀吉がいたのは明らかかと。

この時、信長周辺の者が長宗我部の讒言を信長に進言して、信長の長宗我部への心象が悪化していたのだ。
これにより長宗我部への宥和政策から強硬策への大転換となった。

影で操る羽柴秀吉


おそらく、人身掌握の天才児羽柴秀吉には簡単な事だったのではないか。
羽柴秀吉は風前の灯火の三好を長宗我部に向けるのではなく、信長自身を長宗我部に向かわせることに成功したことになる。

これによって明智光秀の宥和政策はなくなり、交渉失敗の責任を取らざるを得なくなる。
しかも斎藤利三にとっては身内を敵にすることになり、あわよくば明智家中のお家騒動にも発展する可能性があった。


そしてこの時、長宗我部への心象を悪くしていた信長を諌めようとしたのが近衛前久だったという事で、三好康長のバックにいた羽柴秀吉は近衛前久は明智側だとこの時から誤認していたのではないだろうか。

だから本能寺の変直後に近衛前久を捕らえようとしたのではないだろうか。

羽柴秀吉のネットワーク


とはいえ、羽柴秀吉が四国に口出せるほど暇だったのか?
というともちろんそんなことはないが時間は作ってたっぽい。


この頃の羽柴秀吉の城攻めは有名なものが多い。

中国攻めでは、三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、そして高松城の水攻めといった、金と時間をたっぷりかけて且つ、味方を温存する方法でジリジリと中国の毛利へ迫っていた。

そのため、中央の情勢に目を配る時間はあったと思える。
しかも弟羽柴秀長の面白い書状が残っている。
本能寺の変後、丹羽の地侍に宛てた書状で興味深いものがある

たしかに申し上げます。さてそちら方面(夜久氏の本拠地但馬・丹波国境沿いの夜久野地域)においては、羽柴家の家臣の者どもがなんとか近江(長浜)まで往復しておりますが、それについて(山陰道)を安全に送り届けていただきまして、大変ありがたく存じます。ますます今後とも往来がありますでしょうから、特によろしくお願いいたします。

羽柴秀長の書状より

なんと秀吉は瀬戸内海沿いの山陽道ではなく、日本海側への迂回ルートを確保しており、本拠地長浜から京、そして中国の備中高松までのネットワーク網を構築しており、自由に最新情報をいつでもゲットできるようにしていた。
最新の正確な情報で秀吉は常に身の振り方を決めていたことになり、変直前に明智光秀に何が起こっていたのか、つかんでいたとしても不思議ではないね。

羽柴秀吉は直接、本能寺の変とは関係はないだろう。

しかし、四国政策を強硬策へ変換させ、長宗我部の選択肢を削りながら、明智光秀を窮地に追い込んだとすれば、ゾッとさせるほどの人たらしの名人というところだろうか。

作為的誘導説は戯言か?


もしかしたら、中央で何か起こることを想定していたかもしれない。
だとすればあの中国大返しも説明がつくんだけどね。

作為的誘導説!どうでしょうか?あり?それともただの妄想か?

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