奴隷に無理やり殺し合いをさせていた解釈はもう古いかも
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- 剣闘士の死亡率は意外と低かった
- 剣闘士は人気商売!だが地位は底辺
- 剣闘士は男だけではなかった
- 剣闘士の死闘はルールがあった
- 剣闘士の死闘は残虐ショーから
興行化へ - キリスト教の台頭で剣闘士
に暗雲が・・・ - シチリア島剣闘士フランマの誇り
剣闘士の死亡率は意外と低かった
古代は今よりも野蛮!っていう固定概念があったかも。
剣闘士の剣が人肉を引き裂き、血飛沫を浴び、悪魔化する様に民衆は狂乱し、狂気と興奮の色を眼球から放つコロセウムを想像してた。
ローマ時代の剣闘士と聞くと、上流階級である市民権を持つ人間のひとときの楽しみのために奴隷同士に血生臭い殺し合いを強制した黒歴史とも言える人類の負の遺産のように思えるんだけど、どうも違うっぽい。
少なくとも剣闘士達の試合は今日考えられているようなルールのない残虐ショーではなかったようなのね。
闘技会は皇帝や政治家、地方の名望家が主催し、多額の費用がかかったようなんだけど、ほとんどの時代で民衆は無料で観戦できたみたい。
剣闘士の剣闘は古代ローマ時代の人々には熱狂的だったらしく、格闘の様子を描いたモザイク画やフレスコ画、浮き彫り、ガラス器、青銅の装飾などが古代ローマ世界の至るところで発掘されてる。
神に封印された街ポンペイから出土した民衆の落書きでは、ワレリウスという剣闘士が25試合に出場したと書かれてあったとか。
ある程度の都市には必ず円形競技場があったみたいね。
剣闘士は人気商売!だが地位は底辺
なぜ皇帝や政治家が剣闘会を開催したのか?
それは公職選挙のためみたい。
民衆にしてみれば、「票がほしけりゃ、タダで楽しませろ!」ってことだったみたい。
剣闘士は勝ち続ければ富と名声を得ることもできたんだけど、一方でローマ人たちからは「野蛮人」「恥ずべき者」とかいわれていたとか。
20世紀初期の映画創成期のチャーリー・チャップリンがまだ半人前の役者だった頃は職業差別でレストランで食事もできなかったとか。それと似てたりするんだよね。
古代ローマ人たちは熱狂してたくせにね。
剣闘士の社会的地位は低く、売春婦と同類と見なされ、奴隷の中でも最下等の者たちとされ蔑まれていたっぽい。
そんな剣闘士になる者の大半は戦争捕虜や奴隷市場で買い集められた者たちだったようね。
古代ローマでは、市民を裁判にかけずに死刑にするは禁止だったので市民権を保持する身分は剣闘士にはなれなかった。
だけど借金苦や貧困から逃れようと、危険を承知で市民権を放棄して奴隷になるヤツもいたとか。
ただ刑罰で罪人を戦わせるってケースももちろんあったっぽい。
だけど実は剣闘士は今でいう格闘家のように、民衆に大変人気があって、女性にモテモテだったとか。
なので自由民が志願するケースもあり、研究者の試算によると剣闘士10人中2人が自由民出身者だったみたい。
また、実は剣闘士とは男だけではなかった。
剣闘士は男だけではなかった
女剣闘士もいたと最近の研究で発表される。
上半身は裸体だったようで、男女とも胸をあらわにして試合するというルールがあったみたいね。
現在のトルコの街ボドルムにある古代ギリシアの遺跡から女性剣闘士の彫刻が発見されてる。
西暦1世紀ごろの歴史家スエトニウスによれば、ローマ皇帝ドミティアヌスは夜にたいまつの明かりの中で、「アマゾン」と呼ばれた女剣闘士に試合をさせていたと記録を残してる。
ローマの女性は市民権を得た平民以上であったとしても自由がほとんどなく、男性との関係によって定義されてた。
古代ローマの時代から現存するほとんどすべての文学は男性によって書かれているため、女性の視点からどういった人生だったかは謎となっている。そんなことからも暗に底辺だったことがわかる。
女性剣闘士の地位はもちろん底辺だった。だけど、民衆の人気を勝ち取れば名声を得ることができた。それは古代ローマの時代、かなり特殊な人生だったかもね。ある意味、自立と自由を手に入れた憧れの存在だった可能性もあるよね。
また、女性剣闘士の多くが父親が剣闘士だったことも関係していたとか。
ただ、女性剣闘士になるにもルールがあって、20歳未満の自由生まれの女性がコロセウムの剣闘士として死闘することは禁止されていた。
そうなのよね、結構、厳格にルールがあったっぽいのよ
剣闘士の死闘はルールがあった
試合は相手を殺すか負傷させるかして無力化させるまで続きけたみたい。
でも試合を終わらせたければ、敗者が人差し指を高々と上げるか、盾を放り投げると「降伏」の意思表示になり、降伏した相手を傷つけるのは卑しい行為とされたみたい。
試合の敗者については観客が助命か処刑かを選択できて、一般的には敢闘したとして助命するなら親指を上に、見苦しい負け方をしたとしてとどめを刺すなら親指を下にするのが合図であったとされてきたんだけど、現在では少々ちがうよう。
古代ローマの民衆が親指を突き上げた拳とともに「殺せ!」と叫べば処刑、親指を下げれば助命だったとする研究者も中にはいるよう。
なので必ず死ぬまで続くというものではなかったようね?
しかし、それも時代によって違うとは思う。
歴史学者ジョルジュ・ヴェルの研究によると、1世紀において100試合に出場した200人の剣闘士のうち死亡者は19人、生存率は9割を超えていたそうです。
しかし、それ以降の時代では闘技会は再び過激化に向かい、3世紀には1試合おきに死亡者が出るようになり、やがて剣闘士試合の敗者はほぼ殺害されるようになったとか。
剣闘士の決闘は時代が進むと興行化されていき、大金をかけて養成所で育成した戦士が登場するようになる。
剣闘士の死闘は残虐ショーから興行化へ
そんな大金をかけて養成した剣闘士を失うのは経営者にとっても大きな損失であるため、重傷を負って戦えなくなるか死んだ場合、主催者は市場価格に見合った金額を興行師に支払わねばならなかったみたい。
なので興行師にしてみれば、どんどん死んだとしても損はなく、まさに命をお金に変えていたのよね。
古代ローマ帝国の民衆に愛された剣闘士が観衆の希望によりルディスと呼ばれる木剣を授けられて自由になるケースもあったとか。
こういった剣闘競技会はローマ帝国時代では皇帝の人気取り、または民衆の不満のはけ口として大々的に開催されてた。
中には変人もいて、コンモドゥス帝は、剣闘士試合に熱中するあまり、伝えられるところによれば、みずから剣闘士試合を計1000回闘い、剣闘士の訓練所に部屋を持ち、そこに泊まり込むこともあったと言われてる。
キリスト教の台頭で剣闘士に暗雲が・・・
このコンモドゥス帝は自らの妾妃に裏切られ、いつも練習の相手を務めさせていたお抱えの剣闘士によって絞殺された。
原因は妾妃の不倫だったみたい。
ところで古代ローマの剣闘は紀元前300年くらいまでさかのぼることができ、最初は死者を弔う祭儀の一部で出場者は戦争捕虜か罪人だったみたい。
そんな闘技会なんだけど、西暦200年ごろ、まずは女性同士の剣闘は禁止となった。
また次第にキリスト教がローマに浸透しはじめたことから、この血生臭い剣闘をよしとせず、円形闘技場での見世物は次第に制限されるようになり、西暦365年にキリスト教徒を剣闘士の訓練所に入れることが禁じられた。
また西暦380年ごろ、キリスト教が国教になるころになると、一層その傾向は強くなる。
西暦404年にはホノリウス帝によって剣闘士の試合の廃止が命じられた。
そのため、地方で小規模でほそぼそと開催される程度になってしまい、681年に公式に禁止されて消滅となった。
シチリア島剣闘士フランマの誇り
剣闘士の人生は、毎日のように剣闘させられていたわけではなく、年に3回か4回程度の試合を行い、20戦ほどを経験するまでに死ぬか木剣拝受者となって引退したと推定されてる。
1世紀頃の事情では生き残りうる確率は20人に1人程度だったみたい。
シチリア島の剣闘士フランマの墓碑には4度ルディスの木剣を贈られながらも戦い続け、25回の勝利を収め、4回の助命、そして9つの戦いでは引き分けたとその戦歴が誇らしげに墓標に刻まれている。
剣闘士に限った話ではなく、長年尽くした奴隷はその功に報いて解放される場合が多かったようなんだけど、剣闘士だった奴隷は観客の喝采を浴びた経験が忘れられず、引退してもまた剣闘士に戻る者もいたっぽい。
人殺しのみが繰り返される闘技会とそれに熱狂する観客の様子をみた、ローマ帝国時代の政治家セネカは、闘技会を観戦することは「人をいっそう非人間的にさせる」と嘆いていたようなんだけど、そんな喝采の中に人生の意味を見出した剣闘士も中にはいたみたいね。